2010年4月11日日曜日

宗教・霊などの用語について


ずいぶん前から「霊的」「宗教的」「魂」などの用語をについて、ほかに代わるものはないかと考え続けて来た。例えば「霊的なことについてですが・・・」などと言えば、まず相手には「えっ、幽霊や亡霊・・・それに胡散臭い話?」などと思われてしまう。そういうことではなく人間の深い所にある思想や思考、また精神や心、民俗や宗教、人間の奥底のことだと、相手に分かってもらえるまで時間がかかる。また通俗的オカルティズムや宗教の勧誘などとも誤解されかねない。
 

これは「霊」「霊的」という用語の使用に問題があるためだ。しかし、残念なことに、ほかに代わる用語がこれまでになかった。そのために、超心理学や神秘主義なども、こうした用語を使うために誤解・敬遠されてきた面がある。 
 日本語の「霊」「霊的」「宗教」「宗教的」という用語はすでに硬直してしまい、生き生きとした概念やダイナミズム(現象を力とその作用に還元する考え方)に欠けている。そこでリーラーでは、これらの用語に代わるものとして、「神話」を積極的に使いたいと考える。もちろん「宗教」という用語をすべて「神話」にしてしまおうということではなく、「宗教」という巨大・膨大な意味から「神話的」部分を指す場合は、「宗教」という用語を使わずに、「神話」を使用するということである。

 次に「霊」「霊的」だが、この用語も「宗教」同様、硬直しているだけでなく、その意味は茫洋としている。気高く美しい人間の精神性を表す意味合いから、幽霊、おどろおどろしさ、亡霊、胡散臭いあの世の話、までをも含んでいる。また、実存主義の言う所の「存在の背景にある本質」のようなニュアンスから「霊主体従」などと言う用語もある。そうしたことから、リーラーでは、この用語についても検討した。

 さて、結論を先に言うとそれは「むすひ」がよいのではないかと。もちろん神話と宗教のように、「霊」「霊的」のすべてに代えることのできる用語ではない。その一部の意味合いを「むすひ」としたいということである。
「むすひ」は漢字では産霊・産巣日・魂などと書き、「むす」は、『産』『生』という意味を持ち、「ひ」は霊力を表す意味であり、記紀に登場する神々の名にもある。また「結ぶ」の意味もあり、英語のreligionに近い用語だ。このことについては「リーラーの宇宙」で次のように表した。「宗教のことを英語ではレリジョン(religion)だが、こちらの方がずっとその概念を表すにふさわしいかもしれない。religionはもともとギリシャ語のレリゲア(religare)に由来するもので、「(神と人を)つなぎ直す」あるいは「注意深く観察すること」からきている。」

こうしたことから「霊」という意味合いから「むすひ」という意味合いを抽出し、「むすひ」的な意味合いを「霊」とは言わず、「むすひ」を使用したいと思う。なんでもかんでも、「霊的」では、気高い精神性もおどろおどろしい幽霊もごっちゃになってしまう。「むすひ」は神道用語として扱われ一般的ではないが、「霊」に代わる用語としてはこれ以上のものはないと考える。



つまり、リーラーでは用語の問題については「宗教・神話・霊・むすひ」という四つの用語から選択して使用したいと考える。

2010年4月1日木曜日

UFO論は天使論

「酔っぱらいの戯言」・・・ユングのUFO論をお読みになった方は、ユングが酔っぱらって書いただろうという印象を持っただろう。それほどにつまらない書だ。
また、MJ12等の怪文書・・・ハ虫類的宇宙人とアメリカ合衆国が結託し、という幼稚園児を脅すような内容だ。
先進諸国のUFOに関する公的機関の存在や、アメリカ合衆国でのUFOに関する下院での公聴会が行われたことや、最近、英国のUFO情報機関が「研究の結果、UFOなんてありません!」と言い残して閉鎖されたこと、世界各地でUFO目撃があり、YOU TUBE でその映像が逐一公開されていること、デイスカバリーチャンネルのUFOハンターなる番組も好調であり、UFOに関しての情報はどこからでも飛び込んで来る。
また、UFOの乗組員はグレイという宇宙人であるということにもなっている。

 さて、UFOが実在するとしたら、その乗り物を操縦する宇宙人は一体どんな存在なのだろうか。深く考えてみたことがあるだろうか。しかし、考えてみようにも、どこがやっているのか分からないレベルの低い情報操作に撹乱されるのが関の山だろう。

結論から言うとUFOは実在する。見ようと思う意志があれば、驚くほど簡単に見ることができる。見たいと思う方は、ぼくと小旅行に行けば、まず間違いなく空を行く説明不可能な光を見ることができる。それほどにUFOは日常的にこの地球を訪れている。
ではどこから来ているのかというと、どうやら我が太陽の惑星(地球や火星)ではないようだ。ほかの太陽系の惑星を考えるほかはない。
ところが、我が太陽のお隣の恒星、プロキシマ・ケンタウリまでの距離はというと、4.22光年ある。光の速さで4.22年かかる。
無人探査機ボイジャー1号 (17km/s) で7万年以上、有人で最も速い乗り物であるアポロ宇宙船 (10km/s) で12万年以上かかる距離である。

現代最先端科学でがんばってもとても無理、ちなみにこの地球の7万年前といういうとウルム氷河期が始まった頃だ。そして約1万年前に暖かくなり始めて現在に至っている。7万年とはそのくらいの時間である。では一っ飛びに隣の銀河まで行くというと・・・ああアホらし。

我が人類の科学力は、お隣の太陽にも行けないのである。ちょうど金魚鉢の金魚が生命維持装置に身を包んで水のない空気中でも泳げるようになって?金魚鉢の周りをうろうろしているようなものだ。とてもじゃないが、太平洋までは当分無理だろう、そんな感じである。そして、プロキシマ・ケンタウリのそのお隣の太陽までの距離というと、大体5~20光年くらいかかる。星々はこの銀河系でも広大な空間にポツン、ポツンと存在しているにすぎない。

うーん、だとするとどっかの星からUFOに乗った宇宙人が地球に来ているとすれば、とてつもない科学力を持っているか、あるいは人類とは違った方向の科学を持っているかのどちらかになる。そうでなければ、何光年もの距離を行ったり来たりできるわけがない。

 人類は氷河期が終わってから、石器から磨製石器、土器をつくり、その延長上の道具を限りなく作り出したが、現代のような道具に囲まれた生活をするようになるのに約一万年かかった。それでは、このままコンピューターやロケットなどの道具を作り続ければ、いつかはお隣の太陽まで行けるようになるのだろうか?
おそらく答えはノーだろう。人同士、殺人、拷問、強姦、略奪ということを際限なく続けているからだ。戦争、暴力だ。こうしたことを続けていると、知的好奇心や楽しみ、優雅な踊り、謙虚な態度、美しいことがなおざりにされてしまうことになる。人類の目的が、人類同士との闘争に明け暮れ、軍事的、貨幣的が優先されてしまい、知性が滅びてしまうからである。つまり、この文明は破局を迎えてしまい、進歩が止まり、隣の太陽まで行くことのできる科学力をは期待できない。


まあ、別に進歩などあってもなくてもいいのだが・・・そう進歩がなくても、古代人は・・・驚くことに英国のストーン・ヘンジの石を350キロメートル離れた所から持ってくるというとてつもないことをやっている。350キロメートルと言えば東京から名古屋の先までの距離だ。コロを使って、草や木の皮で作ったロープで引っ張ってきたのだろうか。途中の川や山をトン単位の石をどうやって運んだのだろうか。
350キロメートルは350000メートルだ。古代人が一日100メートル運べるとすると、(それが可能かどうか分からないが)3500日かかることになる。約10年だ。数千年前に10年に渡っての食料調達と人員の確保・・・ロープで引っ張るとすれば数人では無理だから、まあ数十人は必要だろう。おっと、山や川はどうやって渡ったのだろう?木製の起重機を作ろうにも道具は石器である。ぼくは収集した縄文時代のサヌカイトの石斧を、いい具合の木を切ってはめ込んでみたのだが、もちろん鉄器であるノコギリを使った。もしノコギリがなく、石器しかなかったら石斧をはめ込む溝作りだけでも大変な作業だと思う。

それから考えてみれば、木材を適当な形にして巨大な起重機を作るのはおそらく石器だけでは無理だ。石器による道具作りと、木の皮や草で編んだロープとコロを使って運んだと考えるのには無理がある。でも、学者はそうだと言い張る。
不思議な話である・・・学者の話が、ですよ。


はて、UFOのことなのになぜ古代遺跡の話?
そう、お思いになられるでしょう。
実は、現代のような科学・技術の無い太古・古代には現代の視点から見て、説明不可能な不思議なことが山ほどあることを言いたいのです。Out of Place artifacts(場違いな工芸品)・・・いわゆるオーパーツが存在するが、一般論はこれらをちっとも不思議ではないと結論付ける。例えば、数十年、数百年かければそんなこと可能ですよ、とか、そんな本や地図は偽書・捏造です、と足早に結論を出す。つまり、オーパーツなんてよく見れば古代・太古でも可能だったんですよ、そんな知識あるわけがないじゃないですか、えーっ、ナスカの地上絵だって、きちんと測量すれば地上で描けることが証明されていますよ、などとにかく否定する。でもね、なぜ高空からでなければ分からない絵を当時の人々が描いたのでしょう?という答えにはならないし、その測量技術にしても、古代の人がどんな道具を使ってどうやって測量したの?ということの答えにもなっていない。

アカディミズムは自分らで分からないことは、否定するか無視するという態度を取る。なぜ事象に対して真摯になれないのか、まったくもって不思議なことである。学問とは知的探求でしょう。まさかボス教授に媚びへつらうことではないでしょう。
「そんな訳の分からないことやっていたら、あんた顰蹙かってるんだよ、それじゃあ研究費つかなくなっちゃうよ、いいかげんにしなさい」
「すみません、これから大学や企業や国家の役に立つ研究をやります」
そんな会話も想像してしまいそうに、貧しい学者が多いのではと思ってしまう。
「UFO研究!あのね複雑系の先生だって、スタンスは唯物論だよ、魂だUFOだなんて言ってないで、まともな研究しなさい」
では、まともな研究とはなんだろう。
はい、人間中心主義と言いながら庶民は人間ではなく烏合の衆と規定し、暴力とマネーとエロ好きな低脳な権力者の言いなりになることですね。
動植物を徹底的に殺し、美しい自然を破壊して、除草剤をバンバン撒くゴルフ場で、ビール片手に「ああ、自然っていいなあ」なんて言う低脳な輩に与することです。
もしかすると、この皮肉さえ理解しない連中かもしれません。

 さて、UFO論なのに学校の先生や権力者の悪口と、オーパーツやストーンヘンジ・・・・
どこがUFOなのか?
それに天使?とどう結びつくのか?
ごもっともです。ここでのUFO論は矢追さんやその筋の情報とは大分違います。
以上が「UFO論は天使論」のプロローグなのですが、また日を改めて書きたいと思います。でも、このブログにお越しになる方はもうお察しがついたと思います。そうなんです、実はUFOとは・・・。

2010年3月23日火曜日

神秘主義で鏡を使うことについて、また鏡の世界と向こうのフィールドとの関連について


この世で古今東西、鏡にまつわる不思議な話は実に多い。未来を知る話や瞑想に使用するなど、それこそ鏡による神秘的な話は山ほどある。(図は鏡の国のアリス)
そのことについて先日、お香を立てて、じっとロウソクの炎を見つめていて、ふと気付いたことがある。
何に気付いたのかというと・・・・。
このブログ二月四日に「幸いなるかな、悲しむ者」で、ヤコブ・ベーメ風のアプローチによって、この世の存在は、背景にある本質の鏡像である、と書いたことである。
つまり、この世が鏡像であるならば、鏡に映った像こそ存在の本質のオリジナルに近いのでは?・・・ということである。となると、当然向こうのフィールドの本質は左右が逆となっていることだろう。


鏡像で思い出すのは鏡文字だ。ベーメやレオナルド・ダヴィンチ、ルイス・キャロルは好んで使っていた。鏡文字とは文字を反転させ、さらに文字の進行方向も逆にしたものである。当然鏡に映すと普通に読めるようになる。このことはこの世の形態だけでなく、その意味も鏡像であることを示唆しているようで興味深い。また、モーツァルトは楽譜を鏡文字のように、第1小節から演奏しても、最終小節の最後の音符から逆に演奏しても同じになるように作曲したものがあると以前何かで読んだことがある。

 つまり、この世が鏡像であるならば当然向こうのオリジナルはその逆である、つまりこれは「悲しむ者は幸いである」は、「向こうのフィールドにあっては、」という但し書きを付けると当然のこととなる。こちらの世界では「傲慢、思い上がった者は幸い」となっている。鏡について考えてみるとなかなか面白い。

鏡が宗教的、神話的、民俗学的、芸術的に扱われるのも当然だと思う所以である。

2010年3月14日日曜日

ダークマター(暗黒物質)について


「死生観」でふれたダークマター(暗黒物質)について、興味深い産経新聞の記事があったので下記に転載します。 写真はLHCです。

『宇宙はどのようにして始まり、これからどうなっていくのか。東京大学の数物連携宇宙研究機構(IPMU)は、物理学、天文学、数学の研究者が連携して宇宙の根源的な謎に挑む、世界に類のない研究機関だ。外国人が6割を占める国際的な頭脳集団を束ねるのは、米カリフォルニア大バークレー校教授からIPMU機構長に就任した村山斉さん。「これからの10年で、物理学は大きく変わる」と語る村山さんに、2010年代の物理学の入り口に案内してもらおう。(中本哲也)
 昨年12月、米国の研究チームが「暗黒物質(ダークマター)らしい粒子反応を検出した」と発表した。
 暗黒物質は銀河や星の形成に寄与しているが、目には見えない正体不明の粒子。「米国チームの観測結果は、発見といえるような段階ではないが、2、3年後には、暗黒物質を捕まえられる可能性が高い」と、村山さんは話す。

 昨年11月に再稼働した欧州合同原子核研究機関の大型加速器(LHC)では、暗黒物質の生成が期待される。IPMUも参加している東大を中心とする研究グループは、2月から稼働する岐阜県の神岡鉱山地下の大型観測施設「XMASS(エックスマス)」で、宇宙に存在する“天然”の暗黒物質検出を目差す。
 LHCで生成されるのは超対称性粒子と呼ばれる未知の素粒子の一部で、これが暗黒物質の有力候補とされる。
 「XMASSは米国の観測施設よりもはるかに大規模で、高精度の成果が得られるはず。LHCの成果と比較することで、暗黒物質の正体に迫れる」
村山さんは、超対称性粒子に関する理論で、20代のころから注目された。超対称性粒子とは、目に見える普通の物質(原子)を構成する素粒子に対応する未知のパートナーのこと。その理論は難解だが「宇宙の爆発的膨張(インフレーション)など、謎に包まれたさまざまな現象が、超対称性を考えることでうまく説明できる」という。
 宇宙の構成要素のなかで、銀河や星をつくる普通の物質は4%に過ぎない。「万物は原子でできているというのは大うそなんです」。大きな重力で普通の物質を引き寄せている暗黒物質は宇宙の23%を占める。残りの73%は、暗黒物質以上に得体の知れない「暗黒エネルギー」で、宇宙を加速膨張させている。
 近年の観測技術の向上で、宇宙の起源や進化について多くの情報が得られた。村山さんは「宇宙の96%について、私たちは何も知らないことが分かった。“革命”の準備ができたのです」と語る。
 17世紀、ニュートンは地上の物体と宇宙の天体を統一する重力の法則を見いだし、人類の宇宙観を変えた。19世紀に電気と磁気を統一したマックスウェルの理論は、量子力学の確立につながり、物理学の常識を劇的に変えた。
 21世紀の物理学者が目差すのは、重力と量子論を統一し、自然界の4つの力(重力、電磁気力、強い力、弱い力)を1つにまとめることだ。目に見える普通の物質と、目に見えない暗黒物質や暗黒エネルギーが統一され、「新しい物理学」に基づく新たな宇宙像が描かれるはずだ。ニュートンが重力の法則を記述するために微分・積分学を編み出したように、「新しい物理を表現するには新しい数学が必要になる」と、IPMUの設立理念を説明する。
 千葉県柏市の東大柏キャンパスに今月、IPMUの研究棟が完成した。現在約60人いる研究者の6割は外国人で、公用語は英語。実験と理論、物理学、天文学と数学の分野を超えた共同研究が本格化する。
 指揮者であり、素粒子論のプレーヤーでもある村山さんは「どんな成果が生まれるか、私自身がワクワクしています」と話した。』

2010年3月10日水曜日

金山巨石群:太陽暦の「測定石」か うるう年わかる精度!!


3/10  毎日新聞より 以下に転載しました。


 古代の天体観測施設では、と注目される下呂市金山町岩瀬の「金山巨石群」の調査研究をしている民間組織「金山巨石群調査資料室」は9日、巨石群内の石が太陽暦を示す「測定石」の可能性が高いと発表した。石に差し込む光が1年に2度同じ位置に戻って同じ形を作ることから、古代の人々が暦として利用し、季節の移ろいを知る手掛かりにしていたと推測している。

 同巨石群は大小の奇岩が入り組んだ縄文時代の岩屋岩蔭(いわやいわかげ)遺跡内にあり、県史跡に指定されている。同資料室の小林由来(よしき)代表(62)は「巨石が人工的に配列されたのでは」と考え、98年6月から「日本日時計の会」の後藤晶男会長や故斉藤国治・元東京大学教授(古天文学)、徳田紫穂研究員(40)らと調査を開始。04年に「巨石群内の巨石の空洞全体が太陽の観測場所だった」と発表した。

 小林代表と徳田研究員、後藤会長はこの日、下呂市金山振興事務所で記者会見し、約10年間にわたる太陽光観測の成果を発表した。

 発表によると、岩のすき間から約7メートル下の3個の石組みのうちの一つへ差し込む光は、毎年10月14日と2月28日にほぼ同じ形になり、その日は太陽の高度もほぼ同じになる。このため、古代人は1年間に2回やってくる同じ太陽高度間の日数を数え、暦に利用していたと推測。また、1年ごとに生じる太陽高度のわずかな誤差の積み重ねによって4年に1度のうるう年を読み取れるといい、現在使われているグレゴリオ暦に近い正確な観測が可能だという。

 小林代表は「測定石は暦を意識して設置されたものと考えられる。さらに巨石群内部を調査することで、日数を数えた痕跡が発見できれば、縄文人の英知が証明される」と話している。【奈良正臣】


以下は岐阜新聞です。

 下呂市金山町岩瀬の金山巨石群について調べている民間団体の金山巨石群調査資料室は9日、同巨石群がうるう年のずれも正確に知ることができるほど、精密に1年の長さを測定することができる「古代の天文台」とする長年の調査結果をまとめ発表した。

 同資料室は巨石群を古代人が暦を読むために使った天文台と考え調査してきた。巨石のすき間から内部の「測定石」に当たる光の位置が移動することで季節の移り変わりが分かる、という。

 地球の公転周期(1年)は正確には約365日5時間50分であるため、ずれを修正するためにうるう年がある。それでも誤差が生まれるため、現在の太陽暦では400年間に3回、うるう年を省き修正している。

 同資料室は測定石に当たる光の位置のずれなど9年間のデータを精査。その結果、巨石群の測定は現在の太陽暦の修正より高精度の、うるう年を132年に1回省けば修正できる、という結論を導き出した。
 今後、この巨石群に興味を持つ米国やドイツの天文学、考古学研究者に報告書を送り検証してもらう予定で、巨石群が「古代の天文台」と学術的に裏付けられることを目指している。




上記ウェブサイトでは、ストーンヘンジとの関連や妙見神社(北斗七星信仰)等について、興味深く編集されています。http://www.seiryu.ne.jp/~kankou-kanayama/kyoseki/index2.html

ここでは、古地磁気学から、この巨石の配置が自然現象ではないことに起因すると結論されています。

自然現象ではない移動・回転?以下このサイトから引用しました。


『 1つの巨石から得られた複数個の測定試料の、特徴的残留磁化ベクトルの方向はかなり揃っていた。これらのことから、巨石群の岩石は、生成時の磁化(初生磁化)を保持していると考えられる。 一方、巨石ごとに求めた平均残留磁化ベクトルの方向は互いに異なっていた【図3a】【図3b】【図3c】。 これを、巨石配置の平面図に表示してみた【図3sa】。 以上の古地磁気結果は、金山巨石群の巨石それぞれが、移動または回転を伴って現位置に定置したことを示している。 この移動または回転が、どういう過程によるものなのか、古地磁気学的に示すことはできないが、少なくとも風化・浸食の過程で取り残された残存地形ではないと判断できる。』


ぼくは今月か来月、この巨石群へ行ってみるつもりです。ストーンヘンジよりずっと近いし、車で半日あれば現場まで行けるでしょう。




2010年3月7日日曜日

死生観


大人の墓は、集落の東部では約420m、南西部では約310m、西端部では約40mにわたり、それぞれ道路跡に沿って列状に並んでいます。その多くは楕円形の墓穴(土坑墓)で、上に石が置かれたものや、土を盛り上げたものもあります。他に、墓穴の周囲に石を環状に並べたもの(環状配石墓)もあります。集落の南西部の墓列内では、約210mにもわたって環状配石墓が列状に並んでいます。また、中からヒスイ製の装身具や石せき鏃ぞくなどの石器や、赤色顔料が見つかった墓もあります。
子供の墓は、北盛土と北の谷に隣接した集落の北東側でたくさん見つかっています。日常生活で使用された土器の底に穴をあけ、棺に用いました。中には大人の墓と同じように石器が入れられたもののほか、拳大の石が入れられたものもあります。(三内丸山遺跡のパンフレットから)


(掘っ立て柱の住居跡に囲まれた)径16メートルほどのいわゆる中央広場があり、90基余りの墓群が整然と囲繞(イジョウ・取り囲むこと)する。中央墓群である。墓群の並びは、東南側が開く六角形をなし、その五つの角には径30~40センチの墓標を建てたと思しき柱穴が見出された。(東南は冬至の朝、太陽の光が中央広場に差し入る方向)
(長野県紫波郡富士見町居平遺跡から)(長野県紫波郡富士見町居平遺跡から)


この二カ所の縄文遺跡では、人を埋葬する場所は居平遺跡の場合は住居のそば、三内丸山では日常的に使用する道に沿った場所だ。他の遺跡も同様に生活の場のすぐそばに墓を設けてある。縄文時代、死に対する忌避など微塵もなかったことを裏付けている。
商店街に沿って墓を設けたり、住宅街の中心に墓を設けているようなものだ。
現代の墓が人里離れた寂しい場所にあることから考えると、死者に対する感覚はまるで違う。さらに、死者を埋葬する意味も、死者に対する気持ちもまったく違うように思える。


死生観・・・一見この語句は死と生をきちんと見ようとする言葉に思えるが、死を意味のない空虚なものとして捉える現代特有のごまかしの感がぬぐえない。
たとえば「死生観入門・太田保世・ごま書房」「経験としての死・芹沢俊介・雲母書房」「生きて死ぬ私 脳科学者が見つめた「人間存在」のミステリー 茂木健一郎」など、死を虚無と考える本はいくら読んでも、死について納得できるものではない。茂木さんに関してはこの人壊れているのでは?という感想を持ったほどである。

死は無であり虚無であり、人生にとって最後の単なる悲劇だと考えているようだ。しかも死を他人事と捉え、自分には余り関係ない、死に直面した人は可哀想だなあ、みたいな態度だ。だって死は脳に酸素が行き渡らなくだけのことだし・・・
で、まあなんとかその恐怖をごまかせばいいのでは、という空虚な屁理屈を並べている。たぶんこういう人は自分は死なないと思っているようだ。


死をごまかすだけ・・・。なんの答えも用意していない。そもそも、死を脳や心肺の停止としか考えていない。宗教的、精神的なことについては、思いつき程度にしか触れない。その思いつきもひどいもので、どっかの経典や本に書いてある宗教的なことを丸写し、列挙するだけ・・・既成キリスト教の場合・・・既成仏教の場合・・・これでは死に行く者を混乱させるだけだ。このようないいかげんな本は出版すること自体無意味だ。作者がどんなに高名であろうと、そうした仕事は徒労というものだ。死を理解しようとする能力がないのなら、はじめから死をテーマに書こうなどと思わないほうがいい。

死生観という語句は縄文時代と違って死者と生者を分けて考える。しかも、死を空虚なものと捉え、その空虚さとどう向き合って生きていくか、あるいは死ぬ間際にその空虚さをどう乗り越えていくかという後ろ向きな考え方だ。

確かに神秘主義やオカルティズムというと、なにか胡散臭い感じがするが、どうだろうか。もしそうした世界に真理が隠されているとしたら・・・そう考える方法もあるのではないか。もしかすると、死は現代科学が定義するものとは違う側面があり、それが人間にとって確実に重要かもしれない。

「死は肉体の崩壊以上のものでも、またそれ以下のものでもない。物質である肉体が滅びれば、はい人生永遠に終わり!精神も心も脳という物質の上を走る情報でしかないのだから、は~い、一巻の終わり!違う側面なんて、考えるだけ無駄!」・・・・本当にそうなのだろうか?


数千、数万年にわたって書き残された死後についての人類の洞察はすべて嘘、戯言・・・唯摩の黙思・・・だって、唯摩経でそう言っているだろう、結局唯摩も答えられなかった・・・・そうではない。唯摩は答えられなかったのではなく、答えなかったのだ。
そんな箇所だけあげつらって、「ハイ、だから向こうのフィールドはありません!」と短絡的に結論するのが、偉い学者や物書きのすることだろうか。
もちろん、ぼくはここに向こうのフィールドの存在を科学的に論理的に証明するつもりは毛頭ない。「リーラーの宇宙・三章」で、試みてはいるが、それも文字や記号で表せる範囲のことでしかないと思っている。

何度もここで言っているように、科学はしょっちゅうその態度を変えている。10000年の未来の科学は、われわれが天動説を笑うように、現代の科学を古代科学と言って、きっと幼稚な古代科学と見るに決まっている。

科学者は現代の数学と物理法則の記述は宇宙普遍の法則だから、たとえ異星人が見ても理解できるものだと豪語して憚らない。本当にそうなのだろうか?算数の「1+1=2」や高校で習ったニュートンの微分方程式の「運動方程式」や、あの難しそうな「特殊相対論」が宇宙の普遍法則と科学者は言い切るが、どうだろうか、未来永遠の不変法則なのだろうか?また何か発見があって、いや実は違っていた・・・・なんてことは大いにあり得るのに。

豪語は科学の思い上がりだ?現在分かっている物理法則が未来永劫に正しいのであれば、確かに、豪語は思い上がりではない。だが、これまで科学は歴史的に新説が出るものと決まっている。そして、旧来の法則が誤りであり、新説が正しいと平然と言う・・・現在科学者が把握・理解している物理法則が未来永劫に間違いのないものであり、正しいものなのか?答えはノーだ。科学が進歩すると通説は修正・否定されてきた。
現在の法則が永遠に正しいと断言できるわけがない。数千年・数万年の未来の科学者からみれば、もしかすると21世紀現代科学を古代の妄想的推理と蔑むかもしれない。そういう意味から科学者はもっと謙虚にならなければ・・・・。科学的判断こそが唯一無二の判断・・・多分違うだろう。「21世紀現在の科学では」という謙虚な前書きをつけるべきだ。科学万能主義は独裁政治にそっくりだ。


「あの世なんて、あるわけがない。科学がそう言っている」・・・・ほとんどの人はほんの
500年ほどの歴史しかない科学の言いなりだ。科学は新しい発見・研究によって、日々訂正される学問だ。


しかも、科学が把握しているエネルギーは宇宙全体の4パーセント(電子・陽子・中性子)にすぎず、ダークマターと呼ばれる真空中に存在するエネルギーなど、いまだに分からないことだらけだと物理学は言う。4パーセントだけの法則でこの世界の全てが分かるはずはない・・・科学に素人のぼくでも、やはりそうだと思う。


「2003年から、宇宙背景放射を観測するWMAP衛星の観測によって、宇宙全体の物質エネルギーのうち、74%が暗黒エネルギー、22%が暗黒物質で、人類が見知ることが出来る物質の大半を占めていると思われる水素やヘリウムは4%ぐらいしかないことがわかってきている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%97%E9%BB%92%E7%89%A9%E8%B3%AA

もしかすると、幽霊とかテレパシーなど超常現象はこのダークマターに由来するのでは?などと考えることもできるかもしれない。
幽霊など超常現象と呼ばれるものは、物理的検知器にはかからないのだから、見えなくて当然だが、もしダークマターと関連があるとしたら、これは極めて面白いと思う。

 さて、科学批判はここで何度もやったので、やめて本題に戻ります。
一体縄文人は死をどのように考えていたのだろうか?
墓制からみると、死者を忌避などせず、まるで生者であるかのように振る舞っている。これを推測することは縄文の文化を知るにあたって極めて重要だろう。この時代の人々は生死を分けていなかったようだ。あるいは生死をコインの裏表のように見ていたのかもしれない。「チベットの死者の書」でも、生きている時と死んでしまった時も、同様にヴァルドウという用語でくくっている。人間の生涯を、生死をワンセットとして考えている。

「そんな宗教的表現は科学的でない!」とどうしても考えてしまう人は、死に直面した時、虚無や無をうまくごまかす方法を会得して死んでいって下さい。
死には豊かな死もあれば、貧相な死もあるのです。死の恐怖と対峙しながら、シャツ一枚で、暗い夜の吹雪きの中を一人だけでとぼとぼと行くように死んでいくことになるでしょう・・・実際、唯物論的思考法しか持っていない人はそのように死んでいくしかありません。


科学は死を考える場合、当てにならないものなのです。死が自分の目前に迫った時、
「自分を自分だと意識しているシステムが止まるだけ、自我や魂や心なんて100兆のシナプス連結とその上を走るデータのことにすぎない。死が怖いことだとか、なんか尊いことだなんて思うことはナンセンス、さようなら!」
・・・・と諦めて楽になりましょう。高齢者の方や死を目前にした方々にも、「人間なんてタンパク質の機械にすぎないんだよ、そのタンパク質と脳のデータが崩壊する、死はそれ以上でも以下でもないんだ。」と言ってあげましょう。


 死の恐怖と対峙しながら、シャツ一枚で、暗い夜の吹雪きの中を一人だけでとぼとぼと行くように死んでいくのです。権力者も貧乏人もそれは同じです。暗く寒い道をとぼとぼと行かねばなりません。死んでいるのですから、凍死することもありません。どんな恐怖にあっても、どんな苦痛にあっても、死ぬことはありません。永遠に苦しい道をとぼとぼと歩き続けるのです・・・と幾多の書物に書いてありますが、まあ、それも戯言なんでしょうが、本当にそうだったら、つらいでしょうね。
そんな事考えるだけで、死にたくなくなります・・・・でも、誰でもが必ず死ぬ!これだけ医療が進んでいるというのに、寿命は縄文時代の二倍程度にしか延びていない。でもそのせっかく二倍に伸びた時間もなぜかやたら早くて、一ヶ月なんてあっという間にすぎてしまう。寿命が延びても、時間のゆとりなんてなくなってしまった。感覚から言うと、かえって寿命が短くなったんじゃないの?そんな気もする。
将来、医療によって死を先延ばししても、せいぜい百年ちょっとがいいとこでしょう。で、百年ちょっとたてば、元の木阿弥、やっぱり死が口を開けて待っています。



縄文時代の墓制や生死に関するその思想は、一体何を示唆しているのでしょう。
古代人の戯言・・・妄想・・・そうなんでしょうか。
われわれの機械文明の歴史はたかだか100~200年にすぎません。この列島においては庶民が電話や自動車を使うようになったのはほんの少し前、コンピューターなんてつい昨日のことです。
縄文時代は一万年続きました。その思想を一万年の含蓄とみるか、古代の妄想とみるか、どちらの態度をとる方が縄文時代をより理解できるのでしょうか。
あの世なんてないと考える唯物論考古学者は、死に対する膨大な過去の遺物をどう考えているのでしょう。おそらくちっとも理解できないでしょうね。
まず、図面や報告、論文をまとめることが最優先でしょう。

“日本最古の殺人”解釈一変 愛媛の縄文遺跡・上黒岩 再調査報告(再)



愛媛県久万高原町の上黒岩遺跡で、ヤリの穂先と見られる骨器が突き刺さった人骨が発見されたのは1969年のことだった。縄文時代も早い時期、約8千年前の出来事で、被害者は男性とされた。「日本列島最古の戦い」「殺人事件の犠牲者」「夜間の猟での事故」などの見解が発表されてきたが、再調査の結果、人骨は女性と判明し、解釈が一変した。

上黒岩遺跡は、28体もの人骨が出土した縄文早期の墓地と、それに先立つ縄文草創期の生活遺跡からなる。骨器の刺さった人骨は、再埋葬された状態で発見された。シカの骨を磨いたへら状の鋭利な骨器が、背後から腰の骨を貫通していた。
殺害されたことが明白な人骨は、縄文時代を通してもほかには例がないだけに、多くの考古学者がこれまで著作などで紹介してきた。


たとえば国立歴史民俗博物館長などを歴任した故佐原真さんは、87年に出した『大系日本の歴史(1)日本人の誕生』で、「縄紋人も、時には人と争い、人を殺すことがあった」ことの証拠として示し、「被害者・成年男子、凶器・穂先10センチのヤリ、即死、犯人不明」と記している。
61年に発見された上黒岩の調査は70年まで5次にわたり、人骨のほかにも土器や石器、石偶など貴重な出土品が多数あった。しかし全体をまとめた報告書がなかったため、関心をもつ研究者が集まり、歴博が中心となって2004年に再調査がスタート。報告書がこのほど完成した。
骨器の刺さった人骨の見直しも、この再調査の一環で、九州大の中橋孝博教授(人類学)が担当した。その結果、骨の形態やサイズなどから、出産経験のある女性と判断した。傷の状態から、生きているときか死後間もない時点で刺されたと考えられた。


さらに、骨にはもう一カ所同じような傷が確認され、何度か突き刺されていた可能性が高まった。「生きている男性が一度刺され死亡した」という前提には疑問符がつき、新たに「女性が何度か刺された。刺されたのは死後かもしれない」という状況像が浮かび上がってきた。


報告書で春成秀爾・歴博名誉教授は「病気で亡くなった女性に対する儀礼行為」との見解を示した。戦いや事故による死であれば骨器を抜いてから埋葬したはずであり、それが腰に刺さったままであるのは「意図的」だからだと指摘し、「出産時に死亡した女性の霊が迷奔するのを防ぐためでは」と推測する。男女の判断の違いにより、まったく別の歴史像が描かれることに驚かされる。40年後に刊行された調査報告書は、しっかりした観察所見の必要性を改めて示したといえるだろう。(渡辺延志)

2010年2月24日水曜日

映画「ザ・リーダー」を見て・・・


「第 2次世界大戦後のドイツ、ミヒャエル少年15歳は病にかかり、たまたま通りがかったハンナ36歳に助けてもらいます。そのことから2人は熱く思い合い、さらに二人だけの激しい愛におちいります、しかし人には絶対に知られたくない秘密がハンナにはありました。それをミヒャエルにも打ち明けられずに、ある日姿を消し、去っていきます。 それから数年後、ナチ戦争犯罪裁判を傍聴していた法学部の学生のミヒャエルに 信じられないことが 起こります。ナチ犯罪被告の1人として出廷したのは、いまでも忘れられない あのハンナでした。ナチ裁判が進むにつれ、愛するハンナの知らざれる秘密が… 」

この映画をごらんになった方もおられると思いますが・・・。
最後にハンナの残したお金を識字率向上のための団体に寄付するという下りになっていましたが、暗に、ハンナの残酷さは文盲に由来するかもしれない、というニュアンスがあるのでしょうか。
だとすれば、高慢な、思い上がった考え方のように思えます。
字を読めないことや知的センスに欠けていることが、人間を冷酷にしてしまうと考えることは、間違いだと思います。

人をけ落としたり、権力を握ってたくさんの人々を不幸に陥れたりする人は決まってインテリです。キリスト教の聖書にもそう書いてありますね。政治、戦争、経済の世界で、暴力、殺人、強姦、泥棒、嘘、詐欺、言い逃れをする思い上がった者たち・・・知的センスも学歴もある者たちです。このことは、たとえを挙げる必要がないほどに、新聞・テレビでそうした悪辣な者たちが毎日報道されています。

優しいことや冷酷であることは、知的レベルとは関係ないことでしょう。家柄もよく、自身学歴もある、経済も豊かであるにもかかわらず、不幸なことに自分が悪辣な人間であることに気付くことができない思い上がった人たちが多数います。まことに不幸で、哀れでさえあります。死ぬまで気が付かないで・・・そして死んでいくのです。
このタイプは特に権力者に見られますが、本当に哀れだと思います。人々を苦しめ環境を破壊して、それを当然の事だと思い上がりの生涯を送るのです・・・そうやって死んでいくのです。死んでから気付くのは、もちろん、もう遅すぎるのです。

 文字は人々を隷属させるために考案されたという研究者もいます。
犯罪の多寡は識字率の問題ではなく、政治・経済の問題です。
魂の優しさや冷酷さは、知的レベルとは関係がなく、もって生まれた環境と・・・そしてその人特有の運命的なものなのではないでしょうか。
この映画の最後、ハンナのお金を裕福になったユダヤの女性と法曹人のミヒャエルの間で、識字率向上のために使うことで合意がなされましたが、「画竜点睛を欠く」の感を抱いたのはぼくだけではないでしょう。文盲であることが、優しさとか冷酷さには関係がないと思います。

 

さて、グノーシス思想の「グノーシス」の意味は知識、あるいは洞察の意味ですが、グノーシス運動はこれに類した誤りをたくさん犯してきました。確かに智は人を救うことができますが、この映画での「識字率向上」の件のように一つ誤ると勘違いの思い上がりを誘発してしまいます。とても危険な思想でありましょう。われわれは無数の事象の中から、足らない頭で、自分にとってのいいか悪いかだけの選択しかできません。その選択が正しいか間違っているのかは、本当にきちんとした洞察が必要なのです・・・それこそがグノーシス思想だと思います。

われわれは古来から伝わってきたからとか、大聖人が言っているのだからと理屈付けをしたがりますが、それも言ってみれば選択にすぎません。きちんと調べてみると、聖人と言われてきた人々も非人道的な行為をなしている場合もあるからです。ここにその例をあげることはぼくのような卑小で臆病な人間にはできませんが、どうでしょうか、世間に流布されていることと真実には以外と乖離があることは確かでしょう。
 例えば・・・・。いえ、やめます。怖くて書けません。


 ぼくの仕事の経験からも、優しい人はインテリより、普通の人の方に多いのです。

以上、この映画の感想文です。

2010年2月17日水曜日

薔薇十字の覚醒・フランセス・イエイツ・山下知夫訳・工作舎




この本は意味深長な本であると思う。ルネ・デカルトやフランシス・ベーコンは*****と距離を置いており、政治的にも思想的にも保身的な臆病者のように書いているような気がする。ベーコンはジェームス二世に気に入られようと必死だったとしており、デカルトについてはバイエ著「デカルトの生涯」を牽いて1618年ドイツでかのファルツ選侯帝軍に向かって進軍するバイエルンの軍に入りそのままカトリック帝国軍に合流したことを声高に言い、どういうわけか、さらに平凡な夢想家のようなイメージで捉えようとしている。もちろん170頁で「いかにも偉大な哲学者にふさわしい。」と持ち上げていることも不自然だ。イエイツの意図がどこにあるのかよく分からない・・・というより、その意図が逆に浮き彫りになっているのではないかとさえ思ってしまう。

この本に何か釈然としない何かが漂うのは、何か訳があるに違いない。訳者があとがきで述べているように、例えばこの時代の思潮を象徴する一人であるヤコブ・ベーメについてはわずか二行しか言及していない。(もちろん、ぼくがヤコブ・ベーメが好きだからというわけではない)登場人物を慎重に吟味して書かれたような気がする。1567~1640に吹き荒れたあの恐ろしい魔女裁判にも触れていない。図は ドミニコ会士で異端審問官であったハインリヒ・クラマー(Heinrich Kramer)とヤーコプ・シュプレンガー(Jacob Sprenger)によって書かれた魔女に関する論文の表紙である。
前半部分と後半部分のトーンがずいぶんと違ってくるのに気付かない者はいないだろう。そのズレはすれ違い程度ではなく、ほとんど違う論調だ。巻末に「コンフェッシオとファーマ」が収録してあるが、扱いは21世紀に読むマルクスの共産党宣言のようだ。

2010年2月15日月曜日

キリスト教について・・・ぼくの所感をお間違えなく!


下記でニーチェの「キリスト教は邪教である」について引用しましたが、ぼくはニーチェとは見解を異にしています。お間違えなく!


もちろん、ぼくは邪教とは思ってはいません。心根豊かなクリスチャンをたくさん存じています。

ただ、キリスト教の前身とも言えるユダヤ教やミトラ教、回教の前身とも言えるマニ教が存在していることは事実です。そうしたセム語族系の宗教はさらにその前にゾロアスター教があり、インドのヴェーダの教えがあり、古代エジプトの宗教があることも確かです。


だからと言って、頭の固い学者のように、またアーリア人であることを異常に誇りに思うニーチェのように、こうした学術的な裏付けがあるからキリスト教は・・・というような論理には与しません。


ニーチェは・・・紀元前数千年にコーカサスあたりから南下して、現在のドイツ方面に移動したアーリア人をドイツ人の源流と考え、現在のイラン、イラク、トルコで隆盛を誇ったゾロアスター教(ツァラストラ教)が大好きになりました。アーリア人の多くはさらに南下してパキスタンを経て、インドに至りました。
もしニーチェが古いものを尊いと考えるのならば、アーリア人を尊ぶのは間違っています。
人類の最も古い故郷は明らかにアフリカです。古いということを根拠にをおけば、リチャード・リーキーたちが発見した人骨こそ人類としてもっとも尊いことになります。人類がアフリカからヨーロッパに進出したのは数十万年前であり、最初にヨーロッパに渡った人類は寒さに適応できず絶滅したようです。

さて、現在ではゾロアスター教の研究はインドのリグヴェーダとの対照によって多く行われているようです。


ニーチェの思索は大変に深いものでありますが、決して超人でもなければ、宇宙人でもありません。図書館にずらっと並べられた西洋的哲学全集を見ても、その一隅の哲学者にすぎません。

キリスト教を邪教だと考えることは一向にかまわないのですが、残念なことに、彼は真に宗教を考えるアプローチを知らなかったと思います。
では、真に宗教を考えるアプローチとは?
ということになりますが、歴史・哲学などの学問とは別のグノーシス的なものではないかと思います。insight・・・洞察というか、この世界を二元論として考えることなしには叶わないでしょう。さらに、もう一歩踏み込むならば、社会学や哲学、心理学、歴史といったアプローチではなく、そうした数学や記録などもかすんでしまうような、もっと大きな力を考えるべきです。
はいそこで、次の連鎖的質問となります・・・・では、もっと大きな力とは?
それは、この世界の存在にはその本質や背景があり、こちらの世界を鏡像のようなものと考えてみることだと思います。
もちろん、そうしたことは最先端の検知器にもひっかからないので、物理的に理解しようとしても、無理です。
無理?・・・・それでは、戯言にすぎないではないか!
はい、まったくその通りです。とりあえず、そうお答えしておきましょう。

2010年2月14日日曜日

性と死生観




A tawny cat catches birds among the papyrus stems, Cats were
Family pets, but he is shown here because a cat could also represent
The Sun-god hunting the enemies of light and order.
His unusual glided eye hints at the religious meanings of
this scene.

二枚の図は、去年九月にイギリスへ行ったときに大英博物館で撮った写真です。
ディスカバリーチャンネルでエジプト文明について見ているときに、この図が出てきましたので、この写真を撮ったことを思い出しました。で、さらに調べてみたところ、最新の研究で、この図は下記のような解釈となっていました。

英文は猫が鳥を捕らえている図の解説ですが、大きく説明を省いていることになります。図の男性は右手にサギを捕まえています。サギはセックスの象徴です。大きな図を見ると分かるように、男性の下には蓮の花を手に持った全裸の女性がいます。

これは・・・蓮が象徴するものは、ある種の蓮の花から採れる麻薬・媚薬を表していることから、媚薬による性交によって異次元に到り、神との接触を図るという構図になっているそうです。
これはタントラの秘法、日本にも立川流として伝わっているような性儀式を表していることになりそうです。
ここにはアップしませんが、古代エジプトのこうした壁画にはポルノともとれる大胆な絵が相当多いようです。現代とは性に対する考え方が大分違うようです。古代・太古は性を真摯に考えていたのです。考えてみれば、物理的自分が存在しているのは両親の性行為のためであることは当然です。
生死と性は表裏のものなのです。性をきちんと解釈しなければ、死生観を持つことができないでしょう。
チベットの死者の書も性をきちんと説明していますし、他の宗教にもあります。キリスト教を含む一神教は庶民の性を縛ることによって、その権力を構築してきた節があるようです。
以下にニーチェについてのぼくのメモを置きました。
「アンチクリスト『キリスト教は邪教です!』F・W・ニーチェ 適菜収 訳 講談社」から・・・
89頁から引用・・・キリスト教という宗教に求められたものが、病的で、低劣で、卑しいものだったので、キリスト教の信仰も、病的で、卑しくなっていったのです。・・・そしてついに、それらの病気が教会に集まり権力を持つようになってしまった。キリスト教会は、人間のよいところ、たとえば正直さ、志の高さ、精神力、公明さといったものの敵です。
94頁から引用・・・・キリスト教は、諸悪の根源です。キリスト教は、人間にとって害があるからこそ、力を持つ宗教なのです。このような隠れミノをまとったキリスト教徒のサル芝居を、神々も遠い空から眺めているのでしょうか。
キリスト教は女性を人間と認めない・・・・「罪」という考え方を利用して、人間の生を汚し、悪口を言い、否定する。人間の価値をおとしめ、人間を汚すことしか考えていないのです。キリスト教が汚いやり方で否定的に扱っている、「生殖」「女性」「結婚」といったものは、『マヌ法典』では真剣に、おそれ敬いながら、愛と信頼を持って取り扱われています。
146頁から・・・・「みだらな行為を防ぐためにも、男は妻を持ち、女は夫を持たなければならない。欲望に身を焦がすよりは、結婚したほうがましだから」(コリント前書七章二節、九節)
キリスト教では処女が妊娠するそうです。人類の誕生がキリスト教化されているのですね。
要するに、妊娠という大切なものが汚されているわけです。
キリスト教徒であることは、人間として許されることなのでしょうか。

 以上、ほんの少しこの本から抜き書きしてみましたが、現代語訳超翻訳というのでしょうか、絶妙な翻訳によってニーチェのキリスト教に対する見方がよく分かります。この本ではニーチェにとっては当然ですが、カントもルターもルソーもどうしようもないヨタ者です。彼らの思想は悪い酔っぱらいのデマカセなおしゃべりにすぎないのです。
この本はニーチェの執筆活動の終期に書かれたようですが、要するに彼の言いたかったことがまとめられているようです。
そういえば、ペンフィールドも晩年には唯物論という即物的な理屈から「わたし自身は、心を脳の働きのみに基づいて説明しようと長年にわたって努めた後で、人間は二つの基本的な要素からなるという説明を受け入れる方が、素直ではるかに理解しやすいと考えるに至った。」ベンフィールド/塚田裕三・山河宏訳『脳と心の正体』法政大学出版局と述懐しています。とても分かりやすく、説得力があります。人間、死が近くなるとやはり本道に戻るのでしょう。

2010年2月6日土曜日

自分の心・感情の動き

ぼくは時々自分の心・感情の動きをずっと観察する。
「ああ、今、ぼくは怒っているな」「憂鬱な気分に襲われているな」、「だらけている気分だな」、「やる気がないな」・・・・そうやってチェックしていると、自分の感情が誰かに見られているような気がする。もちろんそれは自分なのだが、怒ったり、憂鬱になっている自分とは違うもう一人の自分のようだ。とても冷静で客観的な存在だ。
気分の波が手に取るように分かる。例えば、怒っている自分を見て「ハハハハ、そんなことでムカムカしているとは、まだまだだよ。バカじゃないの」などと批判する。
二重人格という病症があるが、ある意味ではそんな感じだ。

 そうしたことを日々やってみているのだが、記念すべき驚くべき一日があった!
今年の一月二十六日だ。一日中、春の優しい陽射しの縁側にいるようだった。もちろん、仕事中のプレッシャーやトラブルやイレギュラーもあったし、また満員の通勤電車の中では、肘を張って携帯をいじる人、新聞を読む人など他の人に迷惑をかける人々もいた。等々、そうしたことは他の日同様あったのだが、その日は朝から身体が軽く、何があってもぽかぽかとした心地よい気分が一日中続いた。
いつそうした状態が途切れるのだろうかと、ずっと観察していたのだが、起床から仕事中まで途切れず、とうとう帰宅の電車に乗ってもそのまま持続し、夜ベッドに入るまで気分が良いままだった。心地よい眠りについたのは言うまでもない。

 さて、次の日はどうかと早速観察をしたのだが、この日は普通に感情の波があった。ということで、それから毎日欠かさず観察を続けてきたが、どういうわけか(理由はあるが、秘密です)二月に入って、何があっても心は微動だにせず、気分のいいままという時間が増えて来た。不思議なことである。特に二月二日はほとんど一月二十六日の再現だった・・・・毎日がそんな感じになれば、これは凄いことだと思う。

ということで敢えてブログに記す次第である。

2010年2月5日金曜日

ヴユルム氷河期の前の温暖な間氷期



2500年前の仏陀や2000年前のキリスト、1500年前のマホメットやマニはつい最近の存在で、それぞれの宗教はゾロアスター教やヘルメス思想、ミトラ教の影響を多分に受けており決してオリジナルではないと研究者は平然と語る。なにしろ・・・例えばザラシュトラあるいはツアラストラは紀元前12世紀の頃の在世だし、ヘルメス(エノク)は5000年以上前のピラミッドの建造者とも言われている。
伝説だとばかり思っていたが、最近のそうした研究の発展は実に説得力がある。(例えばゾロアスター教史・青木健著・刀水歴史全書・2008年やキリスト教研究家の大貫隆先生の数々の著作・翻訳・中村元先生の膨大な著作・翻訳)

紀元前12世紀と言えば、ヴュルム氷河期が終わったばかりの頃で、われわれの住む列島においては縄文草創期の頃だから、なんともはやすごい年代の話である。 図は過去45万年間の気候変化とと氷床量で、横軸は単位1000年。 最後のヴュルム氷河期は7万年前に始まり、1万年前に終わり現在の間氷期となったと考えられている。
ただ、エリコでは土器も持たなかった文明だったが既に戦争をしていた。
しかし、われらが縄文人は世界に先駆けて土器を製造しており、以後一万年に渡って戦争の無い文明を築いていた。(現在の黒竜江省、アムール河周辺でも土器は製造されていた)

走り書きのような文章で申し訳ないが、世界史を概観してみると、それらの古代・太古のイデアもなんだか、その前があったような気がしてならない。
そう、最後のヴユルム氷河期の前の温暖な間氷期・・・数万年以前になるが、そのころの記憶が反映しているのではなかろうか・・・と。

2010年2月4日木曜日

幸いなるかな、悲しむ者


(図がぼけてしまったので図をクリックしてごらん頂ければ幸いです)
この構造はある種の神秘主義が言うような A=B=Cとは言うことはできない。
なぜなら各々別のフィールドに存在するからである。また鏡像ということで分かるように、この世界はAやBのソースから見ると逆に映ることになる。鏡に映った自分の顔は、自分を見る他者からは左右逆となることからでも分かる。
どういうことかと言うと、オリジナルの向こうのフィールドとは逆となるということであり、例えば人間が肉体を離れて、霊体だけになるとこちらのフィー                  ルドとは逆の価値が生じる。
この世界でトップにいるのは、アメリカや中国、ロシアの権力者や超富豪、あるいはバチカンや大本山のボスで、次にその取り巻きとなる。人間の総数を60億人とすれば、おそらく10億番目から60億番目くらいは貧困、無医療、無知、飢餓に直面した人々だろう。この世界ではそうした序列が作られている。

ところが、オリジナルの世界ではその序列が逆だ。人間の貴賤や貧富で上位にいる者が下位になり下位の者が上位となる。60億人が順番に並んで、ぐるっと半周すると、前にいた人が後ろとなり、後ろにいた人が自分の前に来る。そういうことだ。

「幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸いなるかな、悲しむ者。その人は慰められん。・・・幸いなるかな、義のために責められたる者。天国はその人のものなり。・・・」というマタイ伝第五章のフレーズはそうしたこと指しているのだろう。
もちろん、この半周するということについては、その計算に変数が加わるので10億番目以下の人はみんなずっと前に・・・つまりトップが何億人にもなる、というようなことになるだろう。当然、一番前の方にいた人は最後尾となる。
 上の図では、こちらの世界はAのフィールドにある波が、Bのフィールドにあるソフト、つまり形態形成場や精神的波動によって成り立っているもので、実際にはない、もしくはその影をCの世界では存在ということになる。本体はAとBであって、Cはそれらの影ということになる。色即是空・空即是色はこのこと指している。この図は分かりやすいように三つに隔てて書いたが、本来は重なった三重の円だ。
Aは素粒子や時空の根源であるひもが存在しているが、Cにはその波しか無い。Bは古来から語られてきた神・精神・ガイスト・心・形成場というようなソフト的なものが存在しており、Aの波によって形成された時空をコントロールしている元締めであり、Cはそれが投影されているにすぎない。つまり、パソコンではモニター上の三原色がハーディスクのコントロールによって画像となるのだが、画像はハードディスクとモニターによって作り出された影にすぎない。
さらにその影はもともとはモニターの三原色のメカニズムとハードディスクの創造であって、影はモニターのガラスに投影された束の間のものでしかない。だから、この世界では束の間の連続ということになり、過去のものは一切残らない。常に今しかない。
今の一瞬が終わると、瞬時に次の一瞬に切り替わってしまう。鴨長明が書いたように・・・
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、 久しくとどまりたるためしなし。」
・・・この仏教観はたくみにそうしたことを言い表している。(他にどんな解釈があるというのだろう?おそらくこれ以外には考えられない)

2010年2月1日月曜日

「聖杯」

 
ヘルメスの杖についても、カバラについてもミトラ教についても、マニ教についてもスーフィズムについても、また仏教やキリスト教、回教についても、ヘブライについても・・・朱子学や陽明学、神道について、ぼくはほんのさわりしか知らない。
もちろん、ぼくはそれらの膨大な文献に対して、浅学もいいところだ。何も知らないに等しい。
 実際、「リーラーの宇宙」はなんだか、それらの受け売りみたいだとも思っているが、恥じてはいない。ぼくは人類の通奏低音のような・・・そうした原型を捜してきたのだけのことだ。なあんだ・・この部分は仏教で、ここはベーメか、いやここはヘルメスだ、そう思うこともある。でも受け売りみたいだということも、書いた後から知ったことの方が多い。ぼく   はぼくの言葉でリーラー思想を構築してみたい。そう考えてきただけだ。

 ブラバツキーやスウェーデンボルグやローゼンクロイツは偉大な見者で、ぼくはほんの少し垣間見たことがあるくらいで、ああ、そういう世界が実在するんだな・・・程度でまことに心許ないが、こうしたことはこの度の人生を全部かけてもいいくらいに興味深く、面白いと考えている。数千・数万年の人類の思潮は以外とすぐそこ、肩越しに見えそうな気がする。だから、浅薄でない思潮はみな一様に優れた同じ面が見られるのだと思う。
こうしたことをわれわれは財産として、せっかく持っていながら、最近の人類史は見るも無惨な残酷な劣悪な戦争・強奪ばかりだった。残念でならない。
この財産を取り戻すべきだ。
その財産の名前は・・・聖杯とも呼んでいいだろう。聖杯を手に入れれば、未曾有の平和と安穏な世界が・・・物質的には現代とは異質な時代ではあったが、とにかく戦争のなかった縄文の平和を構築し、われわれは賢者となれる。
 
その聖杯の一つとしてリーラーがある。ぼくはそう考えている。そのため、何度も書き直した「リーラーの宇宙」を、新しい視点からまた書き直してみるつもりだ。

2010年1月30日土曜日

天動説と地動説


ローマ教皇庁は1616年に、コペルニクス説を禁ずる布告を出した。当時すでにコペルニクス説は巷間にあった。地動説は当時のキリスト教地域においてまさしく驚天動地のことだったろう。その衝撃は現代のわれわれには想像もつかない破壊力をもったものだった。
これまでは、この世界には天蓋のようなものがあり、そこに星辰が散りばめられ、雲のかなたでは天使が飛び交い、その最上ではヤーウェの神が人々を見下ろしており、神も天使も仰ぎ見ることができる身近な存在だった。
ところが、その天蓋が取り払われ、天は見ることも知ることも叶わぬ無限の高さとなってしまった。底知れぬ高さである。その高さは神や天使と人間を結びつけることを拒絶する。虚無感や喪失感が人々を襲ったに違いない。神の座する天蓋がすっぽりなくなってしまい、無限の高さに消えてしまった。
今まで雨露をしのいでくれた家の屋根が抜けてしまい、頭上がいきなり、仰ぎ見るかぎり無限の高さの虚空となってしまった。それは恐ろしいことだった。地動説はだから、教会にとっても、一般の人々にもとうてい受け入れがたいものだった。

・・だが、それはどうやら真実らしい。神の座する天蓋はない。天空はとてつもない高さ、底なしの高さまで無限に続いている・・・・・。信仰厚き人は驚き、落胆し、虚無感に襲われ、神の再認識無しには信仰を維持できなくなった。コペルニクス説はこれまでの世界観を一変させてしまった。神と世界の再構築が必要となったのだ。
だが、その説を認めれば異端審問にかかる。 だからノストラダムスはその表現を曖昧にせざるを得なかった。 魔女狩りの最盛期は1567~1640で、この時代は狂った聖職者たちと、狂った人々がたくさんの殺人と拷問を行っていた。

 コペルニクスは1473年 - 1543年の人で、ルターやノストラダムスと同時代だ。
ヤコブ・ベーメは100年後の時代だが、彼の著作の背景にはコペルニクス説の強い影響があっただろう。ベーメの認識様式にそれが現れているように思える。「自然の外なる底なしのなか、永遠のもとにおいては本体の静寂あるのみ、あらしむるものは何ものもなく、永遠の静けさ。それと等しいものはなく、始まりもおわりもない底なし」(キリスト、人となる)・・・「こうして、最初の意志は底なしであって、永遠の無と・・・・さて自然界の外にある永遠の底なしを、私たちは鏡とみる。」(神智学)

こうした認識様式から彼は、ナグハマディ文書にあるようなグノーシス的な世界観を構築していったのだと思う。しかし、彼は敬虔なルター派だったからグノーシス文書を知るよしもなかっただろうが、驚いたことに彼の著作はグノーシスに酷似している。 現代の学者はベーメをグノーシス思想家としてみている。

ぼくはもちろん専門の研究者ではないが、彼が言おうとしていたことは・・・あまりに難解で歯が立たない部分もあるが・・・太古から通奏低音のように流れる人類の基層文化を表しているのではないかと、感じている。またぼくは個人的に彼の見たビジョンや構築した神秘主義的思想に対して親近感を抱いている一人である。彼はラテン語やギリシャ語の専門家ではなく、母国の話し言葉によって壮大な著作を著した。美辞麗句とは無縁の人であり、学閥や出身や身分や、嫉妬や足の引っ張り合いとも関係がない。そう言えば、歎異抄を書いた唯円も、鳥追いの唯円である。
真実を語り、毀誉褒貶で仕事をするわけでもない。だからニカイア会議に出席したキリスト教司祭や、学界の親分にへいこらしているガイスト貧乏人とは訳が違う。

16世紀以降、地動説とキリスト教の問題は未だ解決されていないように思える。中途半端なままだ。そして現代に至っても伝統的な解釈よりも、ベーメの考え方の方がずっとすっきりしている。そう思うのはぼくだけではないだろう。

2010年1月28日木曜日

智の女神・ソフィア


智の女神・ソフィアは乙女の女神だが、乙女とは月のものがない女性のことだ。いくら戯れても孕まない故に乙女だ。
自分が乙女(智・哲学)と戯れても、そこにはなにも生まれない。乙女は孕まない。
自分にとってソフィア(智・哲学)と戯れることは、ソフィアが自分が戯れていることを映す鏡となるだけ。自分がどのように戯れているしか分からない。乙女・ソフィア(智・哲学)は永遠の英知によって、飽くことなく自分と戯れてくれる・・・しかし永遠の英知はあまりに広大で漠としている。またその英知は永劫の過去に完成しているために、銀河と米粒の比較が意味をなさないのと同様、自分にとってはもちろん手に余る。
すると、孕まないソフィアの代わりにいつの間にか自分が孕んでしまう・・・男でも女でもソフィアと戯れると自分が孕む・・・何を?

自我だ・・・自分はいつしか自我を孕んでしまう。智の女神ソフィアは危険だ。
ではその孕んだ自分の自我をどうするか。もともと人間にはそんなものはなかったかもしれない・・・。いや自我こそ人間としての自分だ・・・そうだろうか?

これは人間の心・精神・霊魂を考える上で大変な問題となった。自我とは何か?Cogito erugo
sumu・・・いや違う・・・・ギリシャの賢人たちやグノーシス思想家たちから現代に至るまで女神ソフィアと格闘してきた。もともと哲学を意味するフィロソフィアという語は、philos(愛)+sophia(知、智)が結び合わさったもので、「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている。

 般若心経は冒頭に「一切の智に帰依する」とある。
般若心経には智・ソフィアに救いという概念をもたせているが、ソフィアにのめり込むと、ソフィアは鏡だから自分の姿がどんどん明瞭になり、他との相違ばかりが目立ち、他との共通なものがみるみる少なくなり、自分がどんどん浮き彫りになる。そしてついには自我を孕む・・・智・ソフィアに帰依すると、安穏だった心の中にさざ波が立ちはじめる。さらにそのさざ波のすぐ後には、怒濤の波が鈍く光る刃物のような白波を伴って暗い深層からわき上がってくる。

ところが、自分が孕んだ自我が臨月を迎えると自我は再び自分を離れる。元の木阿弥!

やはり自我なんてない方がいいのだ。高邁な精神など冗談じゃない、人間は食って寝てればいいんだ。
そうか、だから十牛図の第十図は、またまた現世に舞い戻って、路傍で飲んだくれているのか。


「それでいい・・・そのプロセスがあなたには必要なのよ!」女神・ソフィアは微笑を伴った言い方で、自分を哀れむ。

2010年1月22日金曜日

涅槃寂静

黙示録、唯識論、臨死体験資料、ダンテの神曲、チベットの死者の書、物理学のハイーパー空間、五次元、形態形成場、スウェーデンボルグ、エドガー・ケイシー・・・また不思議の国のアリス、またハレの場である祭礼は何を表現しているかなど、を比べてみると、同じ通奏低音が流れているように感じる。

黙示録・・・正典にはヨハネの黙示録が採用されているが、ナグハマディ文書にはパウロ、ヤコブ、アダム、シェームの黙示録などがあり、難解なヨハネの黙示録を読む上で参考になる。

唯識論・・・竜樹菩薩論、六十頌如理論、空七十論や般若部の経典など一見極めて難解なものだが、煩瑣な解説に煩わされることのないように読み進むと理解が早いことに気付いた。

臨死体験については体験例がたくさん集められているが、その信憑性と研究者の思い込みを排除すればすばらしい資料だ。

ダンテの神曲はあの世を現したもので、一読すれば内容は明らかだ。

チベットの死者の書は第三章で検証したとおりである。
物理学はまったくの専門外だが、解説書を読むかぎり現代物理学は存在の根拠を超次元に求めているようだ。

スウェーデンボルグやエドガー・ケイシーの書は本屋の精神世界のコーナーに行けばすぐに手に入るので説明は要らないだろう。

不思議の国のアリスはまるで量子論の先駆者ガモフを読んでいるような錯覚を覚えるが、ガモフと不思議の国のアリスの二つを並べて楽しむ人は多い(不思議の国のトムキンスなど)。
祭礼の場である「ハレの場」・・・これは日常的ではない超現実を表すものであり、異空観に人間存在が依拠していることを示唆している。

 さて、ぼくはこれから、これらを一つ一つ比べてみたいと思った。全て日本語ですばらしい翻訳と解説書が簡単に手に入る。わくわくするほど楽しい試みだ!
相手は名だたるキラ星のような資料だ。これをばらばらに放っておく手はない。
仮説としてのぼくの結論は出ている。
概略は・・・これらの書はこの物理空間では在り得ないことを物語っている。死後、人間に起こり得ることを示唆しているようにも思える。

死は人間にとってマイナスの事件ではない。死という事件は誕生と同じカテゴリーだ。死を肯定的に見ることによって、こちらでの生き方も生き生きとする。

われわれは見えないことや物理的に探知・検知できないこと・ものを存在しないと決めてかかっているが、どうだろう。磁石の磁力は眼に見えないが、明らかに存在する。磁力線を証明するのに、金属粉を磁石の周りに振りかけて見るという間接的な存在証明しかできないにもかかわらず、直接的な証拠ではないから、磁力は存在しない、などとは言わない。

キャプチャーボードをパソコンに取り付けるとテレビを見ることができる。しかし、そうした機器を取り付けていないパソコンだとテレビを見ることができない。
テレビの電波は流れているのに見ることができない。



仏教の三宝印は「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」である。
諸行無常はリーラー風に言えば、世界が散逸構造であるということで、諸法無我は依存関係、すなわち原因と結果、縁起の法によってやはり散逸構造的なものであり他の存在と同様に我も無いということになる。

問題は「涅槃寂静」である。これが死後の初期を越えた死の奥深い所まで語っているように思える。涅槃寂静は「諸行無常諸法無我の事実を自覚すること」と一般に考えられているが、龍樹の八十頌論などを読んでみると、そうではなく、それは一種の状態であると読みとれる。

どういうことかというと、涅槃は今生のことだけではなく、魂の、また見えない世界の、さらに死後の世界をふくめてのことを考えるということだ。それが寂静であるということになる。ということは当然龍樹はこちらのフィールドの存在だけを相手にしているわけではなく、向こうのフィールドをも視野にいれている。

おそらく涅槃寂静は死後の、それも臨死を経てバルドゥを経た後に行く、あるいはやってくる状態のことを指している。しかも、それは死後だけではなく、ここにもある、いやそもそも人間には全て仏性が内在しているわけだから、必ずしも死後ではなく今、ここにも寂静はあると示唆している。時間を超越した表現として涅槃寂静がある。だが、同時にそれは死後の深い場所のことでもある・・・涅槃寂静を龍樹で読み解いてみると、そういうことになるのではないだろうか。
興味深いことである。

2010年1月20日水曜日

歴史観

歴史を正しく知らないと、大きな間違いを犯すことになってしまい、白を黒、黒を白と全く間違った判断につながってしまうことになる。

 例えば、あなたが来週一緒に食事することになっているAさんという人について知りたいと考え、Aさんの書簡やAさんの書いたものやAさんの家族、仕事について調べてみた。Aさんの日記も読んでみる・・・これは思考実験だから、人の日記を読むことは悪いことだなどとは考えなくてよい。あくまでもたとえである。

ところがである。Aさんについて集めたつもりの資料が実はBさんのものだったらどうだろう。Aさんのものだと信じていたから、Bさんについてだとは夢にも思わない。

実はBさんは常習の犯罪者で、その日記には次のようなことが書いてあった。
×月×日 空き巣に入ったら、家人がいたので殺して金品を奪った。
×月×日 タクシーに乗って、お金がなかったからハンマーで運転手を殴って気絶している間に逃げた。
×月×日 もう、何人殺したか覚えていないが、自分の欲望のために殺人はしようがないことだと思う。

などなど日記に書いてあった。また家族は無く、定職にもついたことがなく、刑務所を出たり入ったりであった。
あなたはAさんのことだと頭から信じて、Bさんの資料を調べていた。


 さあ、このケースは如何なものだろうか。Aさんに対してどんな感想を持つだろう。
あるいはAさんを迫害しようとしている人が書いたAさん評を読んだらどうだろうか。
いずれの場合もAさんに対して、良い印象を持てるわけがない。一緒に食事をするなどとんでもないと考えるだろう。


 さて、歴史についても同様のことが言える。正しい歴史を知らないと、あるいはきちんとした歴史観を持っていないと、他人が言ったこと、他人が判断したことや他人が書いたりしたことを鵜呑みにして、それが正しいと信じてしまうだろう。

我が国のことにしても・・・・縄文時代、弥生時代、古墳時代、鎌倉時代、江戸時代、現代・・・その様相は外国のように違う。言葉も環境も大分現代とは違う。

また現代の視点だけから、歴史を見ることも危険である。当時の衣食住、生活の営み、考え方・・・まるで違うのだから。

 日本の歴史を間違って解釈していたら、違う日本となってしまい、自分が違う歴史の上に立脚することになってしまい、自分のアイデンティティを失うこととなる。Aさんの日記だと思って読んでいたら、それは実はBさんの日記だった・・・・歴史観においてだってそうしたことは言えるだろう。

ぼくと哲学

哲学の語源をwikiから下記に記します。

古希: φιλοσοφία(philosophia、ピロソピア、フィロソフィア)という語は、: philos(愛)+: sophia(知、智)が結び合わさったもので、「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている。この語はヘラクレイトスヘロドトスによって、形容詞や動詞の形でいくらか使われていたが、名称として確立したのはソクラテスプラトンが用いるようになってから、とされている。

般若心経の冒頭は「一切の智に帰依する」namah sarva jinayaとある。般若prajina paramitaの意味は「智慧の完成」あるいは「到彼岸」だ。

 最近やっと気付いた。そのような意味合いにおいて、ぼくは哲学が好きだ。哲学で言うところの「智」の意味は森羅万象を如何に叙述するか、ということと、「智」と遊ぶことだ。
哲学や文学、音楽、美術、宗教、歴史と・・・これまで稚拙ながらいろいろやってきたことから、「何か一つに絞ったら?」とよく言われてきた。でも、ぼくはずっと一つのことを追求してきたような感じがする。「智」と「遊」は本当に面白いと思う。その面白いものを追いかけて来ただけ・・・・。それは哲学と呼べるものではないかと・・・。

還暦を迎えて、ぼくのスタンスは「うん、やはり、これでいい!」と結論することにした。
そして、もっと面白い、もっとリーラー的な世界へ飛翔したいと思った。凝り固まったつまらない曖昧な論拠に縛られないことが肝要だと気付いた。本当にそう思うようになった。
そういう意味でぼくは転向したのかもしれない。
使徒行伝はキリスト教弾圧をしていた頃のパウロをサウロと呼び、キリスト教徒になってからパウロと呼ぶようになった。パウロ的転回である。