調べていくと、西暦紀元50年頃に高まった反ローマ闘争の熱心党やシカリ派とイエスはあまり関係がない。シカリの「シカ」は短刀の意味だ。それよりこの頃回心して、キリスト者となったローマ市民権を持つ教養人パウロの動きが後々のキリスト教成立に最も重大な意味を持つ。しかしこのパウロ(サウロ)の劇的な回心の理由・意味を一体どこに求めたらいいのだろう。なにしろ、キリスト教徒を迫害するためのダマスコへ向かう途中だった。その時、彼に何が起こったのだろう。学者によっては彼はテンカン持ちだったから、その発作の際に幻想を見たのだろうなどという説まである。回心の後、イエスの兄弟のヤコブにも会い、生前のイエスについて聞き知り、さらに信仰を深くしていったのだが、伝道旅行の際には、同行していたヨハネ・マルコを怒らせてしまった。(ヨハネ・マルコはエルサレムに帰ってしまった)その理由は・・・・。パウロの語るキリスト教が多分にヘレニズム思想的であり、あまりにもユダヤ教とかけ離れてしまったからだと推測されている。パウロ(サウロ)は当初、洗礼を受けるうえで必要だった割礼も省略するようになり、この時点で既にヘレニスト信徒中心の教えになっていた。そういう意味からすると、エイレナイオスの異端反駁の理由も分からないではないが、どうだろう。福音書によればイエスは水の上を歩いたり、病気を治したり、少ない食料を山ほど増やしたり、ずいぶんと神懸かり的な人物だ。まさしく奇跡のイエスに見える。イエスはあの緻密で膨大なヘレニズム文化について聞き知っていたのだろうか。そのギャップが気になる。パウロは生粋のユダヤ人であった。にもかかわらず、ユダヤ教の教義とはずいぶんと違うヘレニズム文化にキリスト教の根拠を求めたため、同胞のユダヤ人にさえ嫌われ、迫害を受けている。彼はイエスをどう見ていたのだろう。使徒行伝はエルサレム教会に所属した頃の彼をヘブライ名でサウロと呼び、その後ユダヤ教と決別してからは、ギリシャ名でパウロと呼んでいる。もともと彼はパリサイ派だった。
パリサイ派:ファリサイ派(ファリサイ、ヘブライ語: פרושים)は古代イスラエルの第二神殿時代(紀元前536年 - 紀元70年)後期に存在したユダヤ教内グループ。本来、ユダヤ教は神殿祭儀の宗教であるが、ユダヤ戦争によるエルサレム神殿の崩壊後はユダヤ教の主流派となってゆき、ラビを中心においた、律法の解釈を学ぶというユダヤ教を形作っていくことになる。現代のユダヤ教の諸派もほとんどがファリサイ派に由来しているという点においても、歴史的に非常な重要なグループであったと言える。ファリサイ人、パリサイ派、パリサイ人(びと)などと表記されることもある。ファリサイの意味は「分離した者」。 現在ではファリサイ派という名称は使われず、「ラビ的ユダヤ教」、あるいは「ユダヤ教正統派」と呼ばれている。 wikipedia
2009年5月3日日曜日
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