縄文時代が「森の文化」「自然と調和した文化」「平和な平等社会」・・・であることは文化人類学者や考古学者、環境考古学者・・・の一致した意見だ。
ただ、残念なことにそのほとんどの根拠がどうも即物的すぎる。花粉分析から食料として十分なクリやヒエの栽培があっただろう、近代にまで及ぶ里山的森の活用があったのだろう、それに殺人用の武器がまったく見あたらない・・・だから縄文時代は平和だったのだと短絡的に結論している。
リーラーでは、それは結果だと考える。縄文の人々はその心根にリーラー的第七感を持っていた。「あの世」があり、現世での行いは必ずフィードバックされる。この世を根底から支える向こうのフィールド(超次元)が優先されていた。もちろん、人を殺したからといって、現世ですぐにそれが目に見える形でフィードバックされるものでもないことも知っていた。ただし、この世が向こうのフィールドと逐一リンクされていることを知っていたため、殺人ができなかった。いつかは向こうにフィールドにおいて、そうした行為が必ずフィードバックされる。だから人殺しや強盗、強姦などをすることはとても怖くてできない。向こうとこちらがリンクしているのだから、悪質的嘘もつけない。要するに「神様は見ている」ことになる。(もちろん縄文時代の神観念は近現代とはまったく異質のナーカ的なものだが)
縄文時代が平和で豊かであったのは、人口が少なく食料事情がよかったからでも武器がなかったからでもない。向こうのフィールドを強く意識して生きていたから、結果的に平和で豊かだったのだ。
「あの世がある?」「そんな非科学的な冗談じゃない」・・・・科学はまだ始まったばかりの世界を見る一つの手段にすぎない。一万年の十万年の未来の科学を想像してみたらいい。現代最先端といえども、古代科学として蔑まれているかもしれない。
もちろんリーラーの言う「あの世」は、向こうのフィールドのほんの一部の人間特有のものにすぎない。
万象は向こうのフィールドとリンクしており、存在の背景にある本質として厳然とある。おそらく、プラトン主義者も実存主義者も、いわゆる観念論者もリーラーの考えを否定できないだろう。というより、リーラーこそ「存在の本質」に迫る哲学だと自負する。なぜなら哲学の定義はおそらく「森羅万象を如何に叙述するか」という態度とその叙述だから。
そういう意味からリーラーは「単なるあの世肯定論」「お化けの世界」「ほとんどの宗教組織」とは縁がない。
2009年9月30日水曜日
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