島根県出雲市多伎町の砂原遺跡で、12万年前ごろの日本最古とみられる旧石器20点が見つかり、砂原遺跡学術発掘調査団(団長・松藤和人同志社大教授)が29日、県庁で発表した。―中略― 地表面から2メートルほどの深さにある約12万7千年前に形成された地層「砂れき混じりシルト」の上部から出土。上部の地層は数千年かけてできたとみられることから、調査団は約12万年前のものと判断した。さらにその上には約11万~10万年前に積もった三瓶山の「木次火山灰層」があり、調査団は今後、火山灰の分析などで年代をさらに絞り込むとともに、見つかった石器の形状などを詳細に調べる。8月に成瀬敏郎兵庫教育大名誉教授(自然地理学)ががけの斜面で最初の一つを発見。9月から松藤教授らが加わり、周辺の東西4メートル、南北7メートルの範囲で本格的な発掘作業を進めたところ、同じ深さ2メートルの地層から残りが見つかった。
(2009/09/29 23:23)
以上は神戸新聞の記事です。
先日ザロフで、縄文土器の文様を話す機会があって、書棚から「縄文のメドゥーサ」田中基 現代書館 を引っ張りだしてみたのですが、この本は縄文土器の模様と記紀神話との関連を扱っています。ご存じのように記紀神話は出雲神話が濃厚なものです。
以上の旧石器の発見から、この列島の神話の原型が12万年前に遡るという可能性さえ考えられるではありませんか。この列島に住んできた人々の精神の形成・・・その基層に迫ることができそうです。これはすごい発見です!
大分前から出雲が気になって仕方がないので、諏訪大社に足繁く通ったり、このことについて考えていました。下記は小説「イツコリ」を書くための数年前のメモなのですが、この記事で思い出したので、引っ張り出してみました。
「古語拾遺に斎部の冨命が部族を率いて、四国から関東の沿岸に植民に入ったとあるが、それを裏付けるように、現在の千葉には阿波と安房など四国と同名の地名があり、冨神社が20社以上ある。また、宗像神社があり九州にルーツを持つ国造イツコリの伝承をもつ麻賀多神社、これも二十数社ある。四国のみならず、海民である宗像族との関連も大きい。さらに、柳田国男は「海上の道」で、沖縄の慶良間島のミロク、あるいはミルク神を祭る祭にいたっては、鹿島神宮と香取神宮、また現在は奥多摩ダムの底に沈んでしまったが小河内村の祭りとの関連を指摘している。ご存じのように、立川から奥多摩を結ぶJR青梅線の終点駅「奥多摩駅」の元の駅名は氷川である。氷川と云えば出雲であり、八王子には氷川神社があり、明治天皇が江戸へ連れてこられて、まず参ったのがこの神社である。などなど、千葉、茨城、神奈川、東京は古墳時代までの海民との関係を抜きにしては語れないほどに、その関連性が深い。安曇族が日本海沿岸から長野へ入ったように、宗像族は太平洋側からこの地へ入ったのだろう。
HLA(人白血球抗原)の遺伝子群は、人類学においての集団の特徴づけに有用な標識として使われているが、この標識からは南中国から沖縄、南九州、東海地方、神奈川県に分布する一群があることが分かっている。このことからその集団が移動した道筋を推測することが可能である。
柳田国男、古語拾遺、HLA・・・・三つとも同じ結論である。」
2009年9月30日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿