2009年9月14日月曜日

gate gate pâra-gate pâra-sam-gate bodhi svâhâ

このマントラについて、般若心経の本文には「それ故に知られるべきである。般若波羅密多の大いなる真言(マントラ)、大いなる悟りの真言、無比の真言が一切の苦を鎮めるものであり、真実であるのは偽りがないからで、般若波羅密多を意味して説かれた真言なのである」と書かれている。
しかしながら「般若波羅密多を意味して」を理解するには当然のことながら「般若波羅密多」の意味を知らねばならない。サンスクリット語原文ではprajina-paramitayam であり、prajinaは智慧という意味だ。問題は次のparamitayamである。paramitayam については
parami 「完成」に抽象名詞を作る語尾 –ta が付いたと見る見解と
para 「彼岸」の単数・対格parami に√ i「行く」の過去受動分詞ita がつき女性名詞化した、つまり「到彼岸」という見解がある。

代表的な訳を下記に記す。

1  Perfection of wisdom
2  智慧の完成
3 英知の完成
4 智慧の救い
5 到彼岸

しかしながら、真言のgate は次の訳のようにどの解釈でも「道」あるいは「到達」「到達者」「gone」 と訳される。(gate は gati(道路・行くこと・)の単数・呼格と √gam (行く)の名詞化した意味で到達者)

1 行道よ 行道よ、彼岸に至る行道よ、彼岸に至るよき道よ、と悟りの智慧よ、成就してあれ」
2 至れり、至れり、彼岸に至れり、彼岸に到着せり、菩提に。めでたし」
3 O wisdom,gone,gone,gone to the other shore,landed at the other shore,Svaha!
4 到達者よ 到達者よ 彼岸到達者よ 完全な彼岸到達者よ 悟りよ幸いあれ

こうした種々の見解を見ると、「般若波羅密多」の意味の相違は文法的解釈の違いにすぎず、この経典に携わった人々は当然「智慧の完成」と「到彼岸」の両方の意味を意識していた違いない。Be動詞や主語の省略などのほかに、こうした複合語について、サンスクリット語を解する者にとって、両方の意味を容易に理解していたはずだ。
しかし、「般若波羅密多」と「掲諦」をそのように意識してみるとどうもおかしなことに気付く。
「大いなる真言(マントラ)、大いなる悟りの真言、無比の真言」と謳っているにもかかわらず、あまりにも簡単にこの真言を開示している。唐突としか言いようがない。「本当ですか?」と・・・・。

この真言を百万遍唱えても智慧の完成など、それだけじゃあ、とてもじゃないが得られないことはこの真言を唱えてみれば、すぐに分かる。これを唱えて「ああ、これが悟りなのか!」などと感嘆した人には古今お会いしたことがない。にもかかわらず堂々と「掲諦 掲諦・・・・」とある。
どうやら、この真言は此岸で唱えて物理的効果があると言うものではないようだ。
ではこの真言がどのようなものであるかと言うと本文にもあるように「到彼岸にて完成されるべき智慧」のことを指している。
到彼岸とは、彼岸到達者とは・・・・彼岸とはあの世のことだ。「あの世に到達した者よ・・・」
と、なんということか、死んだことを智慧の完成の第一歩だ、「svaha!」(めでたし!) と賛嘆しているように読める。それなら死ねばすべての人間は悟りを得られる?・・・そうではあるまい。
一般に彼岸は死後の世界を意味するが、それは正解とも言えるが、不適切である。彼岸は何も死後の世界だけのことではない。死後の世界はリーラーで言う「向こうのフィールド」の一部にすぎない。こちらの世界を支えている存在の背景にある本質がある場が「向こうのフィールド」だ。此岸・・・こちらの世界は「色即是空」で、存在(Form)の性質は空性であり、からっぽで空のようなもので、スクリーンに映る影とも言える。その影を投影している存在の本質がある場・次元が彼岸であり、リーラー用語で言えば「向こうのフィールド」である。
この真言はその向こうのフィールドの存在を意識することによって、智慧の完成をみることができるとしている。だからまず、「向こうのフィールド」の存在を認め、意識する必要がある、ということになる。悟りを得るに、この物理的世界だけを対象にした瞑想など意味がない。「向こうのフィールド」を意識してこそ、門は開かれる。だからこの真言は「大いなる真言(マントラ)、大いなる悟りの真言、無比の真言」なのだ。向こうのフィールドは偽りがないし、肉体が無いことを前提としているから、食欲・性欲など、諸々の欲とも関係ない。そうした単純な物理法則に縛られることがない。

 彼岸の解釈は「向こうの岸」のことだ。 to the other shore,landed だ。
その彼岸を意識すること、それが大いなる道であり、それに気付くことができるということが「めでたし!」なのだ。
「至れり、至れり、彼岸に至れり、彼岸に到着せり、悟りに。めでたし!」


「向こうのフィールド」に関しては下記のリンク「リーラーの宇宙・第三章」を参照して頂きたい。
http://members.jcom.home.ne.jp/lila/newpage13.htm

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