2009年11月28日土曜日

「認知哲学・ポールMチャーチランド」を読んで、再び科学の思い上がりについて

デカルト的二元論は、思い上がった現代科学に葬り去られてしまったかに見えるが、どうだろう。科学は心や精神やcogito や自我や・・・自意識のすべてが脳の仕組みによって解き明かされたと豪語する。脳科学の本を読むと、ニューロン、樹状突起、シナプス結合、軸策、ニューラル・ネットワーク・・・・解剖学的な数学的な話題によって、唯物論を唱えている。脳が1000億のニューロンと100兆個のその相互のシナプス連合があって凄いのだ。だから、そのネットワークはとんでもないものであって・・・・という記述が続く。
さらにその脳が構築した世界を見ている自己など存在せず、ただネットワーク相互が情報を監視し合っているにすぎない。だから、自己や魂などはなく、その全体を・・・・というような調子である。

「認知哲学・ポールMチャーチランド著・産業図書」から少し引用してみよう。

 第一章序論P23から
「われわれがいまもなお根深い誤解もしくは混乱状態にあるという可能性を謙虚に受けとめなければならない。・・・人間の認知は魂もしくは心という非物的な実体の中にあるとの見解が挙げられよう。・・・・非物的な魂という教説は、率直に言うならば、これもまた、たんにその末節においてだけではなく、根本において誤った神話のひとつにほかならないように思われる。」

第七章 障害をもった脳P241から
ここではフロイトをこき下ろしている。

「しかし、精神分析はまたきわめて疑わしいものでもあった。・・・・フロイト理論は信念、欲求、恐怖、実践的推論など、常識的な認知プロトタイプの中心的要素群を、無意識という新たな領域に転用しようとしたのである。・・・・問題はむしろ、こうした無意識の認知活動に備わっている因果的構造は、信念、欲求、恐怖、実践的推論などの常識的なプロトタイプにおいて表現されている意識的な認知活動の因果的構造と同じである、とするフロイトの仮説にある。」

と非難し、フロイトの推論は科学的に誤っていると決めつけ、その理由を次ぎのようにあげる。

「動物や人間の認知の基礎単位は、Pということ信じている、Pということを欲求している、Pということを恐れている、などのようにして文に表現できる状態なのではなく、ニューロン群の活性化レベルベクトルなのである。また、認知活動の基礎単位は、一つの文的状態から別な文的状態へと移行する規則に律せられた推論なのではなく、一つの活性化ベクトルを別の活性化ベクトルへと変形する過程なのである。無意識の活動は、たしかにいたるところに溢れてはいるが、その因果的構造についてのフロイトの推測は真実からはほど遠い。」


 なんか、ほとんど魔女裁判だ。思い上がりも甚だしい!
科学や数学が絶対でないことは、科学史の本を読めば一目瞭然だ。時代と共に理論や計算が進歩し、過去の科学的真実がどんどんひっくり返されてきた。1000年後、10000年後の科学からの21世紀の科学の感想はどんなものだろう。今分かっている科学的な材料で、森羅万象を解き明かすことができると信じることこそ、非科学的ではないか。

リーラーの宇宙・第三章で科学を次のように揶揄してみたが、どうだろうか?

『先に述べたように母性愛を視床下部においてオキシトシンが分泌されるからなどと説明するように、もどかしさどころか、滑稽ともいえるような説明しかできない。オキシトシンという物質を試験管に入れて「はい、これが母性愛です」・・・そういうことではないだろうが、まるで冗談としか思えない。そうではない、オキシトシンがなぜ分泌されるかについて知らねば、母性愛については理解できない。そう、科学はHow?の学問でありWhy?については知らんぷりするしかない。全ての存在そのものは向こうのフィールドを想定しなくては成り立たない。』

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