木の板、柱、釘、壁紙、新建材、布、プラスチック類、瓦・・・これらを有機的に組み立てたものをなんというだろう。そう、家だ。それらは家を構成する元素と言える。家は木や釘でできているが、木や釘ではなくその集合体だ。
家では家族の団らんがあり、家族が風呂に入り、料理をし、食事をし、子供たちが笑い、就寝する。
家は板や釘ではないが、板や釘でできている。家と同量の板と釘を家とは言わない。それは板であり、釘だ。
はて、では家とはなんだろう。
板と釘の研究をしても家については分からない。概念は全く別のものだ。どちらかと言うと家を論ずるには、板や釘の研究よりは設計図の研究の方が適していることになる。また、家が人間が住む場所であるというカテゴリーからすれば、家の定義はさらに人間とは何か?と問う必要も出てきてしまう。そうなると、板や釘から完成した家は、物質である板や釘とはまったく別のカテゴリーにあるということになる。
家を考えるには、人間や家族、歴史的背景、地理的条件、気候・・・が優先されることになる。結果として、家を造る場合に板や釘が使われることになる。板や釘は家のコンセプトが成立してから必要となる。
では・・・・。人間は何からできているのか?そう、窒素原子や酸素原子、水素原子からできている。さらに家の部屋を作るように、脳や内蔵、骨、筋肉、神経がその原子から作られている。
だが、家を考えるように人間を考えてみると・・・・どうだろう。
唯物論的視野にある者は人間が物質から作られているから、人間も物質なんだろうという大きな勘違い、思い違い、思いこみをしている。それぞれの原料に関しては物質の研究で分かるにしても、人間を理解するのに同じスタンスでいいのだろうか?
家は板や釘じゃない!子供の笑い声、料理を囲む家族・・・・、それが家なのだから。板や釘の研究だけからでは、そうしたことを理解できないだろう。
2009年11月28日土曜日
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