2010年1月20日水曜日

ぼくと哲学

哲学の語源をwikiから下記に記します。

古希: φιλοσοφία(philosophia、ピロソピア、フィロソフィア)という語は、: philos(愛)+: sophia(知、智)が結び合わさったもので、「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている。この語はヘラクレイトスヘロドトスによって、形容詞や動詞の形でいくらか使われていたが、名称として確立したのはソクラテスプラトンが用いるようになってから、とされている。

般若心経の冒頭は「一切の智に帰依する」namah sarva jinayaとある。般若prajina paramitaの意味は「智慧の完成」あるいは「到彼岸」だ。

 最近やっと気付いた。そのような意味合いにおいて、ぼくは哲学が好きだ。哲学で言うところの「智」の意味は森羅万象を如何に叙述するか、ということと、「智」と遊ぶことだ。
哲学や文学、音楽、美術、宗教、歴史と・・・これまで稚拙ながらいろいろやってきたことから、「何か一つに絞ったら?」とよく言われてきた。でも、ぼくはずっと一つのことを追求してきたような感じがする。「智」と「遊」は本当に面白いと思う。その面白いものを追いかけて来ただけ・・・・。それは哲学と呼べるものではないかと・・・。

還暦を迎えて、ぼくのスタンスは「うん、やはり、これでいい!」と結論することにした。
そして、もっと面白い、もっとリーラー的な世界へ飛翔したいと思った。凝り固まったつまらない曖昧な論拠に縛られないことが肝要だと気付いた。本当にそう思うようになった。
そういう意味でぼくは転向したのかもしれない。
使徒行伝はキリスト教弾圧をしていた頃のパウロをサウロと呼び、キリスト教徒になってからパウロと呼ぶようになった。パウロ的転回である。

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