2010年2月4日木曜日

幸いなるかな、悲しむ者


(図がぼけてしまったので図をクリックしてごらん頂ければ幸いです)
この構造はある種の神秘主義が言うような A=B=Cとは言うことはできない。
なぜなら各々別のフィールドに存在するからである。また鏡像ということで分かるように、この世界はAやBのソースから見ると逆に映ることになる。鏡に映った自分の顔は、自分を見る他者からは左右逆となることからでも分かる。
どういうことかと言うと、オリジナルの向こうのフィールドとは逆となるということであり、例えば人間が肉体を離れて、霊体だけになるとこちらのフィー                  ルドとは逆の価値が生じる。
この世界でトップにいるのは、アメリカや中国、ロシアの権力者や超富豪、あるいはバチカンや大本山のボスで、次にその取り巻きとなる。人間の総数を60億人とすれば、おそらく10億番目から60億番目くらいは貧困、無医療、無知、飢餓に直面した人々だろう。この世界ではそうした序列が作られている。

ところが、オリジナルの世界ではその序列が逆だ。人間の貴賤や貧富で上位にいる者が下位になり下位の者が上位となる。60億人が順番に並んで、ぐるっと半周すると、前にいた人が後ろとなり、後ろにいた人が自分の前に来る。そういうことだ。

「幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸いなるかな、悲しむ者。その人は慰められん。・・・幸いなるかな、義のために責められたる者。天国はその人のものなり。・・・」というマタイ伝第五章のフレーズはそうしたこと指しているのだろう。
もちろん、この半周するということについては、その計算に変数が加わるので10億番目以下の人はみんなずっと前に・・・つまりトップが何億人にもなる、というようなことになるだろう。当然、一番前の方にいた人は最後尾となる。
 上の図では、こちらの世界はAのフィールドにある波が、Bのフィールドにあるソフト、つまり形態形成場や精神的波動によって成り立っているもので、実際にはない、もしくはその影をCの世界では存在ということになる。本体はAとBであって、Cはそれらの影ということになる。色即是空・空即是色はこのこと指している。この図は分かりやすいように三つに隔てて書いたが、本来は重なった三重の円だ。
Aは素粒子や時空の根源であるひもが存在しているが、Cにはその波しか無い。Bは古来から語られてきた神・精神・ガイスト・心・形成場というようなソフト的なものが存在しており、Aの波によって形成された時空をコントロールしている元締めであり、Cはそれが投影されているにすぎない。つまり、パソコンではモニター上の三原色がハーディスクのコントロールによって画像となるのだが、画像はハードディスクとモニターによって作り出された影にすぎない。
さらにその影はもともとはモニターの三原色のメカニズムとハードディスクの創造であって、影はモニターのガラスに投影された束の間のものでしかない。だから、この世界では束の間の連続ということになり、過去のものは一切残らない。常に今しかない。
今の一瞬が終わると、瞬時に次の一瞬に切り替わってしまう。鴨長明が書いたように・・・
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、 久しくとどまりたるためしなし。」
・・・この仏教観はたくみにそうしたことを言い表している。(他にどんな解釈があるというのだろう?おそらくこれ以外には考えられない)

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