2010年2月1日月曜日

「聖杯」

 
ヘルメスの杖についても、カバラについてもミトラ教についても、マニ教についてもスーフィズムについても、また仏教やキリスト教、回教についても、ヘブライについても・・・朱子学や陽明学、神道について、ぼくはほんのさわりしか知らない。
もちろん、ぼくはそれらの膨大な文献に対して、浅学もいいところだ。何も知らないに等しい。
 実際、「リーラーの宇宙」はなんだか、それらの受け売りみたいだとも思っているが、恥じてはいない。ぼくは人類の通奏低音のような・・・そうした原型を捜してきたのだけのことだ。なあんだ・・この部分は仏教で、ここはベーメか、いやここはヘルメスだ、そう思うこともある。でも受け売りみたいだということも、書いた後から知ったことの方が多い。ぼく   はぼくの言葉でリーラー思想を構築してみたい。そう考えてきただけだ。

 ブラバツキーやスウェーデンボルグやローゼンクロイツは偉大な見者で、ぼくはほんの少し垣間見たことがあるくらいで、ああ、そういう世界が実在するんだな・・・程度でまことに心許ないが、こうしたことはこの度の人生を全部かけてもいいくらいに興味深く、面白いと考えている。数千・数万年の人類の思潮は以外とすぐそこ、肩越しに見えそうな気がする。だから、浅薄でない思潮はみな一様に優れた同じ面が見られるのだと思う。
こうしたことをわれわれは財産として、せっかく持っていながら、最近の人類史は見るも無惨な残酷な劣悪な戦争・強奪ばかりだった。残念でならない。
この財産を取り戻すべきだ。
その財産の名前は・・・聖杯とも呼んでいいだろう。聖杯を手に入れれば、未曾有の平和と安穏な世界が・・・物質的には現代とは異質な時代ではあったが、とにかく戦争のなかった縄文の平和を構築し、われわれは賢者となれる。
 
その聖杯の一つとしてリーラーがある。ぼくはそう考えている。そのため、何度も書き直した「リーラーの宇宙」を、新しい視点からまた書き直してみるつもりだ。

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