2010年7月18日日曜日

大乗仏教批判


ヤーコブ・ベーメの「無底と根底」(四日谷敬子訳・哲学書房)のベーメの著者の読者への序文の冒頭は次のような書き出しだ。

「わたしはこの著作を分別のない獣たちのために書いたのではない。すなわち外貌は人間の姿をしているが、その像つまり霊においては性悪な獰猛な獣で、それが彼らのいろいろな特性に現れ見えているような分別のない獣たちのために書いたのではない。そうではなく人間の像(霊的な人間)のために書いたのである。」

冷酷とも受け取れる明解な主張だ。
この書を読むぼくが霊的な分別のある人間である保証はない。もしぼくが分別の無い獣であるならば、この書を読む資格がない。

ここに「もし」と書いたが、それは「もし」ではなく、ぼくが分別のない獣であり、肥った黒豚であるかもしれないということを考えると・・・ベーメは「もし」と書くわたしを傲慢な、思いこんでいる、思い上がっていると指摘するだろう。
恐ろしいまでの序文だ。

それに比べると大乗仏教の八方美人的な軽さが思い知らされる。
大乗仏教は四十八願に代表されるように、全ての人間を救済しようとする。

ただし、ここに、歎異抄における「悪人なおもて往生す」の悪人の意味は中世的な表現であり現代の悪とは大分意味が違い、悪人はベーメの言う分別のない獣のことではないことは、書き添えなければならないだろう。歎異抄で親鸞は次のように述懐している。また、「この教えは考えてみれば、親鸞ただ一人のものであった」と。 親鸞を鎌倉時代の仏教の単なる大衆的改革者ととらえること、そのものが間違っていると感じている。もし、このことについて論争を希望する方がおられたら、受けてたちますが、鳥追い唯円の書いたこの歎異抄を一言一句きちんとお読みになられてからお願いいたします。
なお宗学のご専門家から、正確な論考をもって、ぼくの解釈が誤っているとのご指摘などあれば幸甚に存じます。

 
 ベーメは分別のない獣は神の救済の対象ではないことを、はっきりと断言している。信仰を持っていようが、資産を持っていようが、人に好かれていようが、その行いが分別のない獣であるならば、救済の対象ではないと言っている。

はっきり言おう。兵器産業、投機的金融資本、人を欺くことで生計を立てている輩(職業名を書き出すときりがないほど多い)は、救済の対象ではない。

例えば兵器産業とは人の殺傷を目的とする道具を作る産業である。作られた兵器が、いつ、あなたやあなたの家族や恋人を攻撃するか分からない。実際に、人類という種に戦争は日常的なものであり、今現在も、家族を殺されたり、家を破壊されたりいる人々がたくさんいる。
兵器を作る産業は殺傷を目的とした道具を作ることによって、自らを肥満させている分別のない獣である。

 つまり、わたしたちも兵器とは関係ない事をしていると確信していても、回り回っていつの間にか兵器産業と同様の行動を取っているかもしれない、と考えることは必要だろう。

そう考えると、衆生の全てを救済目的とするという大乗仏教の一般的な思想は、八方美人的で甘すぎるし、実現不可能な絵空事に見える。人類や道徳や人間の存在価値などを考慮に入れないほとんど嘘っぽいアドバルーンだ。

「この江部遊観のような浅学で思慮深くないちっぽけな人間が、広大無辺の思想潮流である大乗仏教を非難するのは、どんなものですかねえ?」
と揶揄されても、ちっとも平気である。

恐ろしい獣のような人間を含む一切衆生を救済目的とすることは、大体矛盾しているし、そんなことできるわけもない。これまで数千年間どうだったか、考えてみれば一目瞭然だ。


ベーメの「無底と根底」の序文から、なんとなく大乗仏教批判をやってしまったが、それほど大それたことだとは考えない。それより、本当のことなど気にもかけず、血だらけの手で平和を語る連中よりは少しはマシだろう。


絵は通販で売られている仏像です。


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