2010年9月19日日曜日

歴史観

学校で教えられたことやマスコミが面白おかしく取材しただけのおざなりの歴史観は、危惧さえ抱かねばならないほどだ。


例えば中央アメリカのマヤ、アステカ、例えば火山によって埋もれてしまったポンペイ、例えばローマ、例えば中国の三国志といった古代文明について通俗的に聞き知っていることからは、その文明をきちんと把握できないばかりでなく、誤った解釈や感想を抱いてしまう恐れがある。

知らなかった、教えてもらえなかったといういい加減な受身の態度の人は別として、歴史を垣間見るには積極的な読書が必要だ。

マヤ文明はいけにえ儀式のことばかりが強調されているが、密林の中に70ほどの小国が互恵的な連邦のような状態を保っていたために、2000年間も続いた。戦争は王と貴族が直接戦い、庶民は戦争に狩り出されるようなことはなかった。

近現代の諸国家のように、権力者とその家族、取り巻きは口だけで戦争を行い、直接傷つき死に、ごみのように捨てられるのは庶民であるというようなことはなかった。大統領と王様、首相、そしてその取り巻きは決して戦場には出ない。戦争遂行者だというのに・・・。マヤ文明に学ぶべきだ!

アステカは、1519年スペインが現地の反アステカ勢力と同盟を結んで滅ばされた。

そういえば、わが国でもそんなことがあった。
伊治公砦麻呂(コレハリノキミアザマロ)は宝亀九年AD778年の人物である。ヤマト朝廷はこの頃までも、北東北にて蝦夷の勢力を完全に削ぐには至っていなかった。政治力と軍事力を巧みに使い、蝦夷同士をうまく戦わせその間隙をついて支配下に収めていた時期だ。また蝦夷の側は鉄製品を、ヤマトの側は北方の昆布や動物の毛皮等を求めていたことから、お互い貿易の相手としての関係もあった。しかし、ヤマト側の策略もあるだろうが、蝦夷の族長たちはまとまってヤマト側と交渉することができなかった。

蝦夷はまとまりがなく、それぞれの部族ごとが独立していた。

これはちょうどアフガニスタンにおいて、アメリカが北部同盟を味方に付け、タリバン勢力を攻めた構図にそっくりである。 アフガニスタンのムジャヒディンがソ連軍をなぜ撤退に追い込むことができたのか。そして、今度はなぜタリバンがあっけなくアメリカにやられてしまったのか。答えは簡単である。当時のムジャヒディンにはアメリカが後ろ盾となっており、CIAの軍事顧問派遣、そしてスティンガー・ミサイルなど近代兵器を含む大量の武器を供与されていたからである。タリバンには後ろ盾となる大国がついていなかったからである。

テレビや新聞・雑誌だけでこうした軍事的、経済的な面だけを見ていた我々は、アフガニスタンがタリバンの敗北で沈静化されるまで、難民たちの悲惨さには目が行かなかった。

 8世紀のこの列島の政治情勢では、伊治公砦麻呂の姓(カバネ)と外従五位下という位がヤマト朝廷から与えられた。では、なぜこのような国司クラスのものを与えられたかというと、実は対蝦夷戦での功績がもとになっている。

蝦夷のアザマロが蝦夷を相手にして戦った功績?・・・なんだ、これ、仲間を・・・その通り、この構図は大陸で大国中国を相手になんとかお墨付きをもらおうと、やっきになって仲間同士戦う周辺諸国と同じだ。もし、紀元前の匈奴や月氏の騎馬民族が、一致団結していたら、中国が元になるずっと前から騎馬民族は中国に入っていただろう。歴史は繰り返すどころか、そのパターンはいつも同じだ。

 さて、ポンペイやローマについてだが、強大な国家を維持するために住民に課した重税については、キリスト教の聖書を読めば十分理解できるが、その他奴隷売買、売春についての税収も相当大きかった。図版を見れば分かるが、女性の妖艶な姿が描かれた壁画が多いが、それは恋愛の絵ではなく、売春宿の風景である。売春は奴隷売買と密接な結びつきを持っている。その国のその時代の専門の歴史家ではなくとも、歴史のアマチュアにも税収として売春から得る額が多かっただろうことが理解できる。

三国志の時代、中国の人口は三分の一に減った。単純計算だが、全人口に対して三人、四人家族は一人しか生き残れなかったことになる。これが自分の家族だったらと考えるべきである。すると三国志の時代がどんなものか理解できるだろう。なのに、英雄だけに目を奪われた貧弱な歴史観を持つ人は多い。


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