2010年9月22日水曜日

神代の時代

 もし、賀茂真淵、本居宣長、平田実篤の三人が現代の考古学の実績を聞き知ったならば、どうだろう。この列島の歴史を真摯に研究してきたこの偉大な国学者たちは、偉大であるが故にこぞってその成果を賞賛し、自説を修正するだろう。


御三人は神代の時代を茫漠たる過去に求めていたが、実は神代の時代とは弥生時代であり、縄文時代であると明確にできるようになった。また全世界に及ぶ比較神話学や心理学も御三人の時代にはなかった。地名に関する研究もコンピューターによって飛躍的な進歩を遂げている。面白いことに関東にはヒカワという名称が山ほどある。ヒカワはもちろん出雲である。柳田國男翁の著作によるとー例えば今は奥多摩湖に沈んでしまった小河内村の祭りと香取、鹿島神宮の祭りの様子について面白い記述がある。また現在は奥多摩駅となっているが、つい最近まで駅の名前も氷川駅であった。

古事記や日本書紀に記されている神話の神々や神道宗教団体が信奉する神々は、考古学的発掘の物的証拠や世界の神話研究によって最新の学術が解き明かしつつある。

現在の神道はご存知のように、明治政府の宗教改革によるものであり、それ以前には現在の神道という形態は存在しなかった。両部神道の名称に代表されるように、江戸時代以前のながい間、神道とは仏教と渾然一体となった形態であった。また、女帝持統天皇も聖徳太子も聖武天皇も下って南北朝時代の後醍醐天皇もみな仏教を篤く信仰していた。

確かに中世の朝廷行事の夏越の祓いや大晦の祓いは、夏至や冬至を意識した列島の神々のもとに行われたものであったが、歴代の天皇は仏教を信奉していた。古墳時代や奈良時代には数々の発掘により水を主体とした祭りが宮中等で広く行われていたことも分かっている。そして江戸時代まで、つまり京都において天皇家には御黒戸と呼ばれた仏壇があり、明らかに仏教信者であった。天皇が神道信者となったのは、明治以降でありその歴史は浅い。

 キリスト教の聖典である聖書も死海文書やナグハマディ写本の発見によって、これまでのユダヤ教やキリスト教について見直さねばならいほどとなっている。しかし、もちろんキリスト教会もバチカンもラビたちも見ない振りをしている。それと同様の問題がこの列島の神道という宗教にある。

国学者の言うところの神代の時代とは、古墳時代であり、弥生時代であり、そしてその前にあった膨大な時間の流れにある縄文時代なのである。なのに、神道関係の人々は神代の時代を空虚で茫洋としたありもしない空想で構築している。不思議なことだ。

ぼくは右翼とも左翼ともまったく関係ないが、マルクスを読まない左翼主義者や古事記を読まない右翼は、左翼でも右翼でもないと思う。彼らは共産主義や天皇制を利用するだけの暴力主義者にすぎない。マルクス・エンゲルスや天皇がかわいそうでならない。(レーニンはもちろんちっともかわいそうではないが)

柳田國男翁は「神樹編」の中で

「思うにこの問題は、伊勢宗廟の一神秘たる心御柱の由来が、遠慮なく論究せられ得る時代が来たら、これに伴のうてずっと明瞭になることであろう。」

と言っておられる。

0 件のコメント:

コメントを投稿