われわれは誕生については既に全うしている。現在生きていることがその証拠だ。
だが、死はまだ来ていない。死はこれまでの、恋愛、就職、経済活動やお金、財産、名誉や外聞などの問題よりも数段に重い。重いというよりは別格だ。これをないがしろにして、生きていくと必ずそのときに思い知らされる。ガンなどの宣告を受けた人だけではなく、ふつうのお年寄りも、毎晩毎晩自分の死を、恐ろしいまでの恐怖を伴って思い悩んでいる。。死という人生の大きな節目からみれば、財産、地位、お金の意味はかすむほどに小さい。しかし、残念なことに現代、かつて死に対するツールとして有効であった宗教も形骸化し、宗教的資質など皆無の人が宗教団体を運営している。大宗教も新興宗教も団体の維持・管理に目くじらを立てるだけで、死に対してはなんらのアドバイスもできない。たとえアドバイスをしても、そのほとんどが役に立たない。宗教団体は指導者から末端まで、宗教的資質のない人が運営している。マニュアル通りの説明や世間一般の慰めしか用意できない。葬式は生者のためのイベントと化し、死者に対しての導きは皆無となり、成仏や初七日、四十九日などについては常套句で流すだけだ。死者が彷徨うか、無事に死を迎えられるかについては全く関係がないように、常套句をだらだらとべらべらと空虚に申し述べるだけ。
なぜ、人は葬式をし、墓を作るようになったのか?
人が進化して、この世界が物質的浮き世だけの存在ではなく、向こうのフィールドとリンクしていることに気付いてきたからである。こちらの世界と向こうのフィールドとのリンクは、物理学で言う核力のような非常に強い力が働いている。しかしその力の種類は最も弱い重力に似ている。物質的こちらの世界しか考えられない現代人はそういう意味では進化という見方からすれば退行してしまっている。
だが、間違えないでほしい、リーラーの提言は、この国が近年、老人問題を考えなければならない状況となったという近視眼的な見地からのものではない。老人が少数でも多数でも関係がない。人は必ず死にゆく、それが自分の、そして人間全体の問題であると気付いてほしいだけである。
死についてきちんと考えることができるようになれば、現代文明の馬鹿げた習慣からも脱却できるだろう。今日、一円でも出せば、出した方が圧倒的な力を持てるという、商習慣についても見直しもできるだろう。一円でも出せば、悪人であろうが、悪意を持った人であろうが、人生の経験浅い子供であろうとも、お客様として優位に立てる。不思議な習慣である。また、お金を出した相手を庶民同士、様付けで呼ぶ。お金を出したほうが様付けで呼ばれるということは、その立場はすぐに逆転する。善人であろうが、悪人であろうが関係ない。まったくもって不思議な社会構造だ。
これらの不思議な社会構造が構築されてしまったことは、きちんと死を考えないことに起因するとリーラーは考える。が、これは決して短絡ではないことは「リーラーの宇宙」の読者には理解できると思う。
「死」は生物である人間にとって最大かつ緊急の問題である。
リーラーはそう提言する。
是非、第三章をお読み頂きたい。http://members.jcom.home.ne.jp/lila/newpage13.htm
2009年3月3日火曜日
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