2009年3月12日木曜日

プラトニズムの水脈」熊田陽一郎 著 世界書院から思うこと

この本は主立ったプラトン主義者についての解説書である。初期アカメディアから中期プラトニズム・・・プロティノス、ディオニシオス、エリウゲナ・・・歴史を追って彼らの著作を引きながらコンパクトに解説してある。当時の思想を通観するにはちょうどいい。
さて、グノーシス思想やマニ教、キリスト教・・・はその理論を確立するのにプラトニズムが使われたので、ナグ・ハマディ文書などを読む際にも、(もちろんアウグスチノスのキリスト教神学もそうだ)プラトニズムは必須だ。
例えば、30ページに・・・

アレクサンドリアのフィロンPhilon は「或る人々(アリストテレス派)は、創造者よりも創造された世界の力を崇めている。即ち世界は初めも終わりもないといい、他方神については、不敬虔にも完全な不活動性(不動の動者)を要請している。それだから我々は逆に、創造者にして父である神の力に驚嘆せねばならない。そして世界には不釣り合いな権威を与えてはならない。」(De opificio mundi,7-9)
こうしてユダヤ教の創造論がプラトンの伝統を結ばれて、アリストテレスに対立している。」

とあるが、おそらくこういった論を受けて、グノーシス思想はデーミウールゴスなる創造主をサクラス(愚か者)とまでこきおろすのだろう。フィロンは紀元前15年から紀元後45年くらいまでの人である。こうした神観念(宇宙論)は当時一つの思想潮流として流布していた。だから異端反駁を書いたエイレナイオスはキリスト教にこうしたプラトニズムが混入されていくことに、我慢がならなかったのかもしれない。グノーシス諸派に対して「それはキリスト教ではない!キリスト教とは・・・」という論調で律していったのだろう。だがそれは行き過ぎた嫌いがある。ために、その後キリスト教はローマと結びつき、イエスの教えとは似ても似つかぬ権力と財力を得る大勢力となっていったのだろう。イエスが商人たちを蹴飛ばしたのに、現代のバチカンには財宝があふれかえっている。
また三位一体や一週間など、3や7を聖視するのはユダヤ教の影響だが、しかし旧約聖書と新約聖書が一冊に綴じられているのも不自然に思える。確かにキリスト教はユダヤ教から派生したものだが、通読してみると分かるが、新旧はそのスタンスがあまりにも違う。にもかかわらず福音書は旧約聖書から引っ張ってきて、これこれこれが成就されたなどと主張するが、不自然極まりない。

西暦紀元前後の思想潮流を通観してみると、百家争鳴だが共通する部分がある・・・その元となるものがそれ以前にあったような気がする。どういうことかと言うと・・・それは氷河時代にまで遡るのではないか?ラスコーなどの壁画を残した人々と時代以前、相当に進んだ文化があったのではないか、そうでないと・・・ユングの元型などを持ち出すのではなく、実はそうした文化が存在したのではないか?そんなふうに考えるこの頃である。
最近は縄文土器の絵図を読み解くことも盛んになってきた。もしかすると、現代型文明とは異質の文化が花開いていた可能性があるのでは、それこそリーラーなのではないか・・・・と。

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