2009年4月15日水曜日

死者が住まうにもっともふさわしい処

「それは、<意識のピラミッド>の頂点と基底を対照させるもので、頂点を通常の自己意識とし、基底を内部世界の深部にある時空を越えた存在の広がりとしている。ひとは力の及ぶかぎりより深くへ降りていくことができ、そこでは、通常意識にとって時間的に経過していたものも全一存在に渾融し、過去・現在・未来も一つの究極の現存として直知されることになる。そして、このような次元こそ死者が住まうにもっともふさわしい処である、と示唆されてもいる。」
以上は死生学(死と他界が照らす生・熊野純彦 下田政弘 編・東京大学出版会)から、「死と死者への感受の道から死の詩人リルケを通した一編の抜粋である。

近代の人間の通常意識は極めて狭く、例えば視点にしても焦点を合わせた場所以外は全く意識に上らない。考えも遠い宇宙のことと今晩のおかずのことを、同時に意識に上らせることはできない。まず遠い宇宙を考えていることをいったん引っ込めて、それから今晩のおかずのことを意識上にあげてからでないとできない。しかしそれほど狭い視野しかない通常意識だが、為すことのできることはほぼ無限だ。スポーツもできれば、本も読めるし、食事もできれば、芸術作品を見て感動もするし、恋もできるし、もちろん仕事もできる。そのどれをとってももの凄まじい情報を必要とするものだ。
それを可能にしているのは、バックグラウンドで高速計算している無意識である。
さらに、その無意識を統括している・・・パソコンで言えばウィンドウズやマックやMSDOSソフトにたとえることができるような場所がある。そして、そしてさらにその奥には上記引用したような場所があると考えることも不自然ではないだろう。
“死者の住まう処”・・・・リルケの言う霊視はそこに感応することによって生ずる現象と言えるだろう。

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