2009年7月28日火曜日

管弦楽組曲「般若心経の音楽的解釈の試み」を作曲するにあたって・・・再解釈の提案

管弦楽組曲「般若心経の音楽的解釈の試み」を作曲するにあたって・・・
再解釈の提案のメモ

般若心経に「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の一節があるが、一般には「生ぜず滅せず 、垢からず浄からず 増えず減らず」と、漢字そのままからの意味によって理解されているが、龍樹の「六十頌如理論(六十詩頌の正理論および注釈)」(大乗仏典 第14巻 龍樹論集 中央公論社) を読むと趣は異なってくる。
不生不滅については当然のことながら「依存関係による」ということから生起消滅が説かれる。
不垢不浄については次の龍樹の言葉が理解の助けになるだろう。
「また、寂離なるもの無垢なるものであるのに、倒錯に落ちている愚か者たちは、本性が清浄である存在をも自らの妄想の垢で汚しているために、倒錯して理解する。とこらが、聖者たちはそうではない。すなわち、彼らは無を有と立てることなく、それを「寂離」であり無垢として見る。」
清らかではない、と見ることはそこには清らかである、という見地を立てることになり、清らかを認めていることになる。

つまり「清らか」という存在と「汚れている」という存在の双方があることになり、これでは空の思想とは言えない。物理的世界の存在を認めることとなり、涅槃寂静の世界など垣間見ることもできなくなってしまう。
また輪廻や涅槃に関しては、例えば「彼(聖者)はまた、幻がつくり出しているような、といわれるものに依存して涅槃を立てるとき、世間の常識によって無常を立てるのである。したがって、輪廻や涅槃というものには実体がないことが証明されるのである。このように存在の本性を認識して(実体があると)取捉しないなら、それこそが涅槃である、と疑いなく知らねばならぬ。また消滅によって滅があるが、生成変化するものを知ることによってあるのではない(というならば)、そのような滅はいったいだれに直感されるのであろうか。そのばあい消滅を知る者がどうしてあるだろうか。もし幻が作りだしているもののようにすべてのものが取捉されないときに生起がないといういうことが涅槃ではなくて、物体(色)などの自体として示されている存在の実体が、その原因・条件である行為や煩悩をもたないことによって、のちに生起しないということが涅槃であると反論者が考えるなら答えよう。
もしそうであるならば、存在の本性として示されている実態が消滅して、流れが断たれることから涅槃し、生成変化するものを知ることによって涅槃するのではないということになろう。」

サンスクリット語を日本語に訳すことは大変難しく、その真意はなかなか伝えにくいので翻訳も大変だと思う。日本語として、この龍樹の論もすらすらとは行かないのだろうが、その思想を垣間見ることは可能だろう。この列島で最もポピュラーである般若心経を理解するのに、龍樹の論は大変参考になる。



色即是空 (形あるものは実体がないことと同じことであり、)
空不異色 (実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。)
色即是空 (したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり、)
空即是色 (実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。)

上記はある高名な方の般若心経の説明であるが、このような説明では凡人には何も分からない。「形あるものは実体がないことと同じことであり」・・・・「形あるものは実体がない」とは一体どういうことだろう。実体とはそもそもなんのことだろう。こんな説明では何も分からない。難しい用語の羅列にしか見えない。あるいは、このような用語をよく理解していない浅学な者は相手にしないということなのだろうか。なんだか物質世界だけからこれを説明しようとしているのではないかという気がしてしまう・・・そんな疑問がわいてしまう。漢字の字面だけでなんとか説明しているために、舌足らずになってしまっていると思う。

機械論的宇宙観による説明をする人間が仏教界を牛耳っているから・・・日本の仏教界は葬式イベント屋から脱却できないのだ。有り余る財政がありながら悩める人、苦しむ人に手を差し伸べることなどほとんどしない。有力檀家の太鼓もちをするのではなく、人々に慈愛や慈善がいかに仏の供養になるかを身をもって実践したらいいではないか。
豪華な寺の奥にいて、高邁でお品のよい話をしているのもいいだろうが、たまには外に出てホームレスに500円玉一個くらいあげても罰は当たらないだろう・・・おそらくそんなこと一回もしたことがないだろう。捨て猫、捨て犬の面倒を見る・・・そんなこと考えたこともないだろう。お釈迦様に聞いてみたらいい。苦しむ人、苦しむ生き物を救うことを仏教は説いている。既成大仏教とはいえ組織は新興宗教と変わらないピラミッド型の集金組織にすぎないのだ。
高位にある僧は強大な権力を持ち信者から収奪して、行い澄ましている。自分は釈迦の教えを説いていると思い上がっている。株式会社の役員より、国家の高官たちよりもひどい。

リーラー的解釈は向こうのフィールドをきちんと見据えることからはじめる。

色即是空 の意味は「形あるものは実体がないことと同じであり」に似てはいるが原義はそうではない。

「般若心経を梵語原典で読んでみる・涌井 和 著 明日香出版社」から抜き書きしてみよう。
先に結論を言うと、色即是空の空は名詞ではなく、形容詞だということだ。
『sunya(空)は形容詞だから全体としても形容詞つまり所有複合語を作る』
(色と空の代表的な現代語は『色ー物質的現象、形態、もの  空ー実体がないこと、空虚(性)、無実体なる(もの)』)
涌井先生はマックス・ミューラーの「色即是空」の英訳 O Sariputra , he said, 'form here is emptiness, and emptiness indeed is form. Emptiness is not different form emptiness. What is form that is emptiness, what is emptiness that is form.
のemptinessという名詞を使うことを批判している。
Form is by its nature empty.= Form has the characteristic of emptiness.
ということならば・・・と言っている。
つまり、原典に忠実に訳せば「色は空である」ではなく、「色は空という特性を持つもの」・・・「物質的現象は空虚な性質を持っている」ということになる。
そして小本に相当する大本の漢訳を挙げて「空」を形容詞 的に訳さなければならない、と補強説明している。

つまりこの経典は「色=空」と言っているのではなく、「色(存在物)は空の性質をもつものである」が正しいとしている。もっともなことだ。驚くべきことに玄奘の訳を批判もしている。ちなみに下記はE Conze 先生の訳なのだが、これも「空」を名詞として扱っている。
form is emptiness and the very emptiness is form ;
emptiness does not differ from form, form does not differ from emptiness, whatever
is emptiness, that is form,
大先達もヨーロッパの大先生方に対しても、歯に衣着せずに・・・うーん、涌井先生は凄い!だが21世紀のサンスクリット学者からみれば当たり前のことだろう。

このフレーズに相当する法月と智慧輪の訳もここにご紹介しておこう。
法月訳「色性是空、空性是色、/色不異空、空不異色/色即是空、空即是色」  
智慧輪訳「色空、空性是色/色不異空、空不異色/是色即空、是空即色」
原典と同様三段に分けてある。

 これまで般若心経としてこの列島に流布してきた玄奘訳の小本漢訳「般若心経」を読み直すことが必要だと思う。ブログではこの経典全体を本格的に論証することはできないが、この組曲を書くにあたって、経典の理解に四分の三を使い、四分の一を作曲にあてた次第である。

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