2009年7月27日月曜日

Symphonic「般若心経」に寄せて

ナグ・ハマディ文書の「ヨハネのアポクリュホン」をゆっくりと読んでいると、どうしても第三章で精読したチベットの死者の書を想起してしまうのはどういうことだろう。方やチベット語からの方やコプト語からの日本語への翻訳を通してであり、かつグノーシスと仏教という大きな相違がある。にもかかわらずである。詳細はこれからやっていくつもりだが、この感想は思いこみや考え違いではなく自分の中ではとても自然に思える。ナグ・ハマディ文書を読み始めてから約一年、遅々として進まないがゾロアスター教やマニ教やキリスト教、仏教・・・ユングの提唱する元型がその中にあるようで、どうしてもその元型を知りたいと願う気持ちは日に日に強くなる。またニュー・ワールド・オーダーと呼ばれる物質世界での人類の掌握を考えている人たちが信奉している思想は、実は至高神から下位にあるデーミウールゴスの法則によるアルコーンとしてのものだということも分かって来た。彼らには是非「ヨハネのアポクリュホン」を読んでもらいたいものだ。せめて「重い涙」を流せるように自分自身を改めないと、またナハーシュの見解を・・・つまりエデンの園においての蛇の理解を得ないと未来永劫にわたって償わなくてはならないという想像を絶する恐怖と困難と苦難に捕縛されてしまう。だから、キリストは「右の頬を打たれたら左の頬を・・・」とまで強く訴えているのだ。おそらく仏典や旧約聖書を含むあらゆる宗教書の下にはQ資料があったのだろう。そのQ資料を垣間見るにそれほどの労苦は必要ない。ふとしたことから、ちょっとしたことから思索を重ねるだけでよい。リモート・ビューイングなどの世界が存在するのはこの世界が明らかに二元的な世界だからである。しかもこちらは下位の立場だ。鏡に写る鏡像はあくまでも鏡像であり本質ではない。プレーローマとは浄土のことであり、「色即是空 空即是色」はこの関係を示している。空を鏡像と読み替えればこれは一目瞭然であろう。いろいろな見方をもってSymphonic「般若心経」を続けて書いていきたい。

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