2009年8月16日日曜日

第五番「是諸法空相」を書くにあたって・・・

第四番の「色即是空」に曲を付けるのは以外とすらすらいったのだが・・・・
「舎利子 色不異空 空不異色 色即是空」ではまだそれを認識する自分が存在しているが、次の「受想行識亦復如是」でその自分の認識作用もまた空であると喝破する。さらにたたみ掛けるように「是諸法空相」と、なんと言うことか、この漢訳は勘違いを誘発するように諸法は空相であると言う。ん?「不生不滅 不垢不浄 不増不減」という自然界すべての法(のり)も空相?法が空相?・・・そうではない、すべては実体ではないと言っているのだ・・・そして「無眼耳鼻身意 乃至無意識界」・・・・と、ああそうか!と思う。
 漢訳仏典はなんとも厄介だ。字面だけで見ると、何がなんだか分からなくなる恐れがある。ために、以下に「舎利子 是諸法空相」から「乃至無意識界」までを、中村元先生のサンスクリット語からの翻訳を置く次第である。
ここの部分のフレーズを第五番として、漢訳般若心経に曲をつけるにあたってなんともはや苛々した。

 「シャーリプトラよ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減 ることも、増すこともない。
 それゆえに、シャーリプトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、 表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、 かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域 から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。」
 

0 件のコメント:

コメントを投稿