2009年8月25日火曜日

第六番 無受想行識 を書くにあたって

漢訳では 受想行識をひとまとめにして、否定の接頭辞をつけているが、原典では
na vedana na samjna na samskara na vijinananani
と「受無し 想無し 行無し 識無し」一つずつ na をつけている。
ところが次の漢訳「無眼耳鼻舌身意」は
na caksuha-sron-gharana-jihva-kaya-manamsi
とひとまとめに na をつけている。
(これは小本も大本も同様である)
などと見ていくと、感覚器官はひとまとめにできるが、人間の感覚作用・認識表象作用・意志作用・理解作用はひとまとめにできない、ということだろうか。
形成されたニューラル・ネットワークは複雑系的に考えるとこれはある意味ではカオスの淵にあるものだから、ひとつ間違えると狂気に転げ落ちてしまうということになる・・・まったくその通りだろう。現代の拝金主義、どんな悪人でもマネーさえあれば善人の貧乏人の百倍いい暮らしができる。また、国家や軍隊や企業、組織の権力者はもう完全に狂気の坂を転げ落ちている。まさかファラオじゃないのに、自画自賛!なんか勘違いして人類を自分と同じ狂気の淵に追いやっている。

この経を理解しようとしながら曲を書いていると、人間の精神作用について、これはずいぶんと危なっかしいものなのだなあ、と感じる次第である。もっと楽にやれないのだろうか? あ、そうか、だからこの経があるのか!とハタと膝を叩く。

うーん、この曲を書き始めてよかった!などと独り言を呟いく日々である。

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