2009年8月30日日曜日

第七番「無無明」を書くにあたって

先に「不垢不浄」について、龍樹の六十頌如理論をご紹介したが、この般若心経を理解するにあたって、龍樹の論を参考にすることは必須だ。
ここで「色即是空」の意味が色(Form)は存在しないことではなく、色は空性を持つものであるとご説明し、「では空性とは?」で中途半端に終わらせたが、これはその続きである。「中論」の有名な一節に「縁起であるものそれを空性と私たちは説く」の意がある。
空性とは縁起・・・・原因・結果が繰り返す様子であり、これといった(色)Form が存在しているわけではない・・・ということだ。そういう意味において色即是空がある。

 さて、涌井和先生の「サンスクリット語で般若心経を読んでみる」によると、漢訳では分からなかった点の理解が進む。この本はサンスクリット原典とその直訳と解説、そして漢訳が並記してある。ぼくが第七番とした「無無明」だが、これは悟りも無明もないという意味だが、次の「亦無無明尽 乃至無老死」の一節にかけては、悟りがなくなることがなく、無明がなくなることもない。 「そしてついには老死がなく 老死がなくなることもない」という意味になるのだが、よく吟味してみると「無明や老死がなくなることもない」とは、「それはあるっていうことかな?」と疑問がわく・・・・その通りだろうが、無智亦無得と・・・「そのために、それらを知ることも得ることもない」となってくる。
ここでさらに疑問がわく・・・そういう状態は深い瞑想で起こるかもしれないが、凡人にとってそういう状態とは、肉体から離脱した時、即ち「死んだ状態なのでは?」と考えてしまう。死んでしまえば、まさしく無無明だし、無老死は当然だ。それを生きている時に気付く必要がある・・・・そういうことなのだろうか?????
というシチュエーションで第七番を書くことになった。

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