2009年10月21日水曜日

解釈について

般若心経の広本に、「誰であれ、善男子で深遠な般若波羅密多において行を行じたい者はどのように教えられるべきか」というフレーズがあるが、これがまた諸説紛々だ。
「教えられる」ではなくこれは「学ぶ」と訳すべきとの主張もある。もちろん「教える」と「学ぶ」は立場が逆である。しかもここは菩薩が主語だから、菩薩が学ぶべきだと読める・・・しかしそれは困る・・・菩薩はかなりの完成者である。その菩薩が「学ぶべき」だと、菩薩の権威が落ちてしまう。ここはやはり「教える」だろう・・・で落ち着くのだが、実は違う。

 使役活用の未来受動分詞のsiksayitavya をどのように読むかということなのだが、前にもここに書いたように、この経典の編纂者たちはどちらの意味でもよい、あるいは両方の意味があると考えていたのだと思う。サンスクリット文法は煩瑣なので、解説書に目が充血するほどに注意深く読んでいるのだが、こうした見解の相違に度々遭遇して面食らってしまう。
先日も「一遍上人語録を読む」という本を読んでいて、その解釈があまりにおざなりで、しかも間違っていると思い、読めなくなってしまった。私見からすると、まったくの勘違い的解釈なのだ。「凡愚が何を大口を叩くのか!」と叱られてしまいそうだが、実はそうした伝統的解釈は視点が現代の倫理・道徳で見るという定説となっているようで、当時を反映していないように見える。この本はかえって一遍を貶めているような気がした。確かに私は凡愚だが、深窓だけで研究をしたり、世間や人間を書物やデーターだけから類推するような者ではない。人間の実生活を実践してきた者という自負が多少はある。

 ということで、伝統的解釈ではなく、人間として、いやいや哺乳類ヒト科という存在として真摯に「もの・こと」を・・・そして般若心経をきちんと読もうと強く感じた次第である。
真摯の意味は・・・。

少し前、朝など顔を洗う際に水道を流しっぱなしにしないで、こまめに止めてエコしようというようなことを聞いたことがある。そしてそれを実践する者は結構エコに気を付けているという自覚を持てるのだと言う。ところが、である。そういうヒトに限って、自分の車はしょっちゅう洗車していてピカピカだったりする。一週間に何度も洗車機をくぐらせる・・・・膨大な水を洗車のために浪費することは平気!
「ぼくはエコに気を付けて、顔を洗う時はこまめに水道を止めるよ、車だって燃費のいいものが出れば、すぐ買い換えるさ」
どうなんだろう、エコを真摯に考えるならば・・・・。

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