2009年11月1日日曜日

びっくり仰天!「栄光の仏陀」

「マニ教・ミシェル・タルディー著・文庫クセジュ」を読んでいて、とてつもない記述に思わず目を疑った。マニ教はご存じのように、ヨーロッパではグノーシス思想と同様、キリスト教異端のレッテルを貼られたササン朝ペルシャ時代にマニが創唱した世界的宗教である。中国でもマニ教の漢字文献が多々発見されているように、マホメットが回教を打ち立てるまでは、大宗教であった。

 エイレナイオスがカトリック(普遍的の意味)を構築するために、ヴァレンティノス派などを攻撃したように、エジプト人のアウグスティヌスも、もともとマニ教徒であったがために、エイレナイオスが攻撃したようにマニ教を攻撃することによって、自らのキリスト教神学を打ち立てている。宗教学ではユダヤ教、キリスト教、マニ教、回教をセム語族の一神教などとまとめて、その中で論述する軽い学者もたくさんいる。
もちろん日本の神道や、ギリシャ・ローマ神話に代表されるヨーロッパはもともと多神教の世界である。
マニ教は現在は回教にとって変わられてしまったが、世界宗教を考える上ではとてつもなく重要な存在である。

さて、ぼくが驚いた問題の箇所はこの本の49頁目にこの著作者タルデイーが次のように書いていることである。

  「(マニが)王の王との謁見は、マニ教徒たちには自分たちの宗教が公に認可されたものと誤って解釈された。イブン・アル=ナディームが集めたあるマニ教伝承は、預言者マニが王の謁見室に入る様子を、『両の肩にランプを輝かせ』、まるで栄光の仏陀さながらであったと叙述している。」

以上の箇所だが、「両肩にランプを」とは、現代の表現ではスポットライトを浴びてみたいな表現だろう。
ササン朝ペルシャ時代に「栄光の仏陀」という表現を選ぶ素地がこの地にあったのだ!・・・ということは、当時、仏教が現在のイラン・イラクに常識程度に行き渡っていたということなのだろうか?そうでなければ、「栄光の仏陀」などという表現は行われないだろう。驚くべきことだ!著者のタルディーは高名なマニ教やゾロアスター教の研究家だ。資料の解釈は別としても、彼の収集した資料はおそらく完全だろう。
「仏教史 イラン・イラク編」
すると、イラン・イラクではどのような仏教が・・・?悲しいかな、浅学なぼくはペルシャ時代にイランやイラクに仏教がどのように伝わっていたかを全く知らない。

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