2010年1月22日金曜日

涅槃寂静

黙示録、唯識論、臨死体験資料、ダンテの神曲、チベットの死者の書、物理学のハイーパー空間、五次元、形態形成場、スウェーデンボルグ、エドガー・ケイシー・・・また不思議の国のアリス、またハレの場である祭礼は何を表現しているかなど、を比べてみると、同じ通奏低音が流れているように感じる。

黙示録・・・正典にはヨハネの黙示録が採用されているが、ナグハマディ文書にはパウロ、ヤコブ、アダム、シェームの黙示録などがあり、難解なヨハネの黙示録を読む上で参考になる。

唯識論・・・竜樹菩薩論、六十頌如理論、空七十論や般若部の経典など一見極めて難解なものだが、煩瑣な解説に煩わされることのないように読み進むと理解が早いことに気付いた。

臨死体験については体験例がたくさん集められているが、その信憑性と研究者の思い込みを排除すればすばらしい資料だ。

ダンテの神曲はあの世を現したもので、一読すれば内容は明らかだ。

チベットの死者の書は第三章で検証したとおりである。
物理学はまったくの専門外だが、解説書を読むかぎり現代物理学は存在の根拠を超次元に求めているようだ。

スウェーデンボルグやエドガー・ケイシーの書は本屋の精神世界のコーナーに行けばすぐに手に入るので説明は要らないだろう。

不思議の国のアリスはまるで量子論の先駆者ガモフを読んでいるような錯覚を覚えるが、ガモフと不思議の国のアリスの二つを並べて楽しむ人は多い(不思議の国のトムキンスなど)。
祭礼の場である「ハレの場」・・・これは日常的ではない超現実を表すものであり、異空観に人間存在が依拠していることを示唆している。

 さて、ぼくはこれから、これらを一つ一つ比べてみたいと思った。全て日本語ですばらしい翻訳と解説書が簡単に手に入る。わくわくするほど楽しい試みだ!
相手は名だたるキラ星のような資料だ。これをばらばらに放っておく手はない。
仮説としてのぼくの結論は出ている。
概略は・・・これらの書はこの物理空間では在り得ないことを物語っている。死後、人間に起こり得ることを示唆しているようにも思える。

死は人間にとってマイナスの事件ではない。死という事件は誕生と同じカテゴリーだ。死を肯定的に見ることによって、こちらでの生き方も生き生きとする。

われわれは見えないことや物理的に探知・検知できないこと・ものを存在しないと決めてかかっているが、どうだろう。磁石の磁力は眼に見えないが、明らかに存在する。磁力線を証明するのに、金属粉を磁石の周りに振りかけて見るという間接的な存在証明しかできないにもかかわらず、直接的な証拠ではないから、磁力は存在しない、などとは言わない。

キャプチャーボードをパソコンに取り付けるとテレビを見ることができる。しかし、そうした機器を取り付けていないパソコンだとテレビを見ることができない。
テレビの電波は流れているのに見ることができない。



仏教の三宝印は「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」である。
諸行無常はリーラー風に言えば、世界が散逸構造であるということで、諸法無我は依存関係、すなわち原因と結果、縁起の法によってやはり散逸構造的なものであり他の存在と同様に我も無いということになる。

問題は「涅槃寂静」である。これが死後の初期を越えた死の奥深い所まで語っているように思える。涅槃寂静は「諸行無常諸法無我の事実を自覚すること」と一般に考えられているが、龍樹の八十頌論などを読んでみると、そうではなく、それは一種の状態であると読みとれる。

どういうことかというと、涅槃は今生のことだけではなく、魂の、また見えない世界の、さらに死後の世界をふくめてのことを考えるということだ。それが寂静であるということになる。ということは当然龍樹はこちらのフィールドの存在だけを相手にしているわけではなく、向こうのフィールドをも視野にいれている。

おそらく涅槃寂静は死後の、それも臨死を経てバルドゥを経た後に行く、あるいはやってくる状態のことを指している。しかも、それは死後だけではなく、ここにもある、いやそもそも人間には全て仏性が内在しているわけだから、必ずしも死後ではなく今、ここにも寂静はあると示唆している。時間を超越した表現として涅槃寂静がある。だが、同時にそれは死後の深い場所のことでもある・・・涅槃寂静を龍樹で読み解いてみると、そういうことになるのではないだろうか。
興味深いことである。

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