2010年1月28日木曜日

智の女神・ソフィア


智の女神・ソフィアは乙女の女神だが、乙女とは月のものがない女性のことだ。いくら戯れても孕まない故に乙女だ。
自分が乙女(智・哲学)と戯れても、そこにはなにも生まれない。乙女は孕まない。
自分にとってソフィア(智・哲学)と戯れることは、ソフィアが自分が戯れていることを映す鏡となるだけ。自分がどのように戯れているしか分からない。乙女・ソフィア(智・哲学)は永遠の英知によって、飽くことなく自分と戯れてくれる・・・しかし永遠の英知はあまりに広大で漠としている。またその英知は永劫の過去に完成しているために、銀河と米粒の比較が意味をなさないのと同様、自分にとってはもちろん手に余る。
すると、孕まないソフィアの代わりにいつの間にか自分が孕んでしまう・・・男でも女でもソフィアと戯れると自分が孕む・・・何を?

自我だ・・・自分はいつしか自我を孕んでしまう。智の女神ソフィアは危険だ。
ではその孕んだ自分の自我をどうするか。もともと人間にはそんなものはなかったかもしれない・・・。いや自我こそ人間としての自分だ・・・そうだろうか?

これは人間の心・精神・霊魂を考える上で大変な問題となった。自我とは何か?Cogito erugo
sumu・・・いや違う・・・・ギリシャの賢人たちやグノーシス思想家たちから現代に至るまで女神ソフィアと格闘してきた。もともと哲学を意味するフィロソフィアという語は、philos(愛)+sophia(知、智)が結び合わさったもので、「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている。

 般若心経は冒頭に「一切の智に帰依する」とある。
般若心経には智・ソフィアに救いという概念をもたせているが、ソフィアにのめり込むと、ソフィアは鏡だから自分の姿がどんどん明瞭になり、他との相違ばかりが目立ち、他との共通なものがみるみる少なくなり、自分がどんどん浮き彫りになる。そしてついには自我を孕む・・・智・ソフィアに帰依すると、安穏だった心の中にさざ波が立ちはじめる。さらにそのさざ波のすぐ後には、怒濤の波が鈍く光る刃物のような白波を伴って暗い深層からわき上がってくる。

ところが、自分が孕んだ自我が臨月を迎えると自我は再び自分を離れる。元の木阿弥!

やはり自我なんてない方がいいのだ。高邁な精神など冗談じゃない、人間は食って寝てればいいんだ。
そうか、だから十牛図の第十図は、またまた現世に舞い戻って、路傍で飲んだくれているのか。


「それでいい・・・そのプロセスがあなたには必要なのよ!」女神・ソフィアは微笑を伴った言い方で、自分を哀れむ。

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