A tawny cat catches birds among the papyrus stems, Cats were
Family pets, but he is shown here because a cat could also represent
The Sun-god hunting the enemies of light and order.
His unusual glided eye hints at the religious meanings of
this scene.
二枚の図は、去年九月にイギリスへ行ったときに大英博物館で撮った写真です。
ディスカバリーチャンネルでエジプト文明について見ているときに、この図が出てきましたので、この写真を撮ったことを思い出しました。で、さらに調べてみたところ、最新の研究で、この図は下記のような解釈となっていました。
英文は猫が鳥を捕らえている図の解説ですが、大きく説明を省いていることになります。図の男性は右手にサギを捕まえています。サギはセックスの象徴です。大きな図を見ると分かるように、男性の下には蓮の花を手に持った全裸の女性がいます。
Family pets, but he is shown here because a cat could also represent
The Sun-god hunting the enemies of light and order.
His unusual glided eye hints at the religious meanings of
this scene.
二枚の図は、去年九月にイギリスへ行ったときに大英博物館で撮った写真です。
ディスカバリーチャンネルでエジプト文明について見ているときに、この図が出てきましたので、この写真を撮ったことを思い出しました。で、さらに調べてみたところ、最新の研究で、この図は下記のような解釈となっていました。
英文は猫が鳥を捕らえている図の解説ですが、大きく説明を省いていることになります。図の男性は右手にサギを捕まえています。サギはセックスの象徴です。大きな図を見ると分かるように、男性の下には蓮の花を手に持った全裸の女性がいます。
これは・・・蓮が象徴するものは、ある種の蓮の花から採れる麻薬・媚薬を表していることから、媚薬による性交によって異次元に到り、神との接触を図るという構図になっているそうです。
これはタントラの秘法、日本にも立川流として伝わっているような性儀式を表していることになりそうです。
これはタントラの秘法、日本にも立川流として伝わっているような性儀式を表していることになりそうです。
ここにはアップしませんが、古代エジプトのこうした壁画にはポルノともとれる大胆な絵が相当多いようです。現代とは性に対する考え方が大分違うようです。古代・太古は性を真摯に考えていたのです。考えてみれば、物理的自分が存在しているのは両親の性行為のためであることは当然です。
生死と性は表裏のものなのです。性をきちんと解釈しなければ、死生観を持つことができないでしょう。
チベットの死者の書も性をきちんと説明していますし、他の宗教にもあります。キリスト教を含む一神教は庶民の性を縛ることによって、その権力を構築してきた節があるようです。
以下にニーチェについてのぼくのメモを置きました。
「アンチクリスト『キリスト教は邪教です!』F・W・ニーチェ 適菜収 訳 講談社」から・・・
89頁から引用・・・キリスト教という宗教に求められたものが、病的で、低劣で、卑しいものだったので、キリスト教の信仰も、病的で、卑しくなっていったのです。・・・そしてついに、それらの病気が教会に集まり権力を持つようになってしまった。キリスト教会は、人間のよいところ、たとえば正直さ、志の高さ、精神力、公明さといったものの敵です。
94頁から引用・・・・キリスト教は、諸悪の根源です。キリスト教は、人間にとって害があるからこそ、力を持つ宗教なのです。このような隠れミノをまとったキリスト教徒のサル芝居を、神々も遠い空から眺めているのでしょうか。
キリスト教は女性を人間と認めない・・・・「罪」という考え方を利用して、人間の生を汚し、悪口を言い、否定する。人間の価値をおとしめ、人間を汚すことしか考えていないのです。キリスト教が汚いやり方で否定的に扱っている、「生殖」「女性」「結婚」といったものは、『マヌ法典』では真剣に、おそれ敬いながら、愛と信頼を持って取り扱われています。
146頁から・・・・「みだらな行為を防ぐためにも、男は妻を持ち、女は夫を持たなければならない。欲望に身を焦がすよりは、結婚したほうがましだから」(コリント前書七章二節、九節)
キリスト教では処女が妊娠するそうです。人類の誕生がキリスト教化されているのですね。
要するに、妊娠という大切なものが汚されているわけです。
キリスト教徒であることは、人間として許されることなのでしょうか。
以上、ほんの少しこの本から抜き書きしてみましたが、現代語訳超翻訳というのでしょうか、絶妙な翻訳によってニーチェのキリスト教に対する見方がよく分かります。この本ではニーチェにとっては当然ですが、カントもルターもルソーもどうしようもないヨタ者です。彼らの思想は悪い酔っぱらいのデマカセなおしゃべりにすぎないのです。
キリスト教では処女が妊娠するそうです。人類の誕生がキリスト教化されているのですね。
要するに、妊娠という大切なものが汚されているわけです。
キリスト教徒であることは、人間として許されることなのでしょうか。
以上、ほんの少しこの本から抜き書きしてみましたが、現代語訳超翻訳というのでしょうか、絶妙な翻訳によってニーチェのキリスト教に対する見方がよく分かります。この本ではニーチェにとっては当然ですが、カントもルターもルソーもどうしようもないヨタ者です。彼らの思想は悪い酔っぱらいのデマカセなおしゃべりにすぎないのです。
この本はニーチェの執筆活動の終期に書かれたようですが、要するに彼の言いたかったことがまとめられているようです。
そういえば、ペンフィールドも晩年には唯物論という即物的な理屈から「わたし自身は、心を脳の働きのみに基づいて説明しようと長年にわたって努めた後で、人間は二つの基本的な要素からなるという説明を受け入れる方が、素直ではるかに理解しやすいと考えるに至った。」ベンフィールド/塚田裕三・山河宏訳『脳と心の正体』法政大学出版局と述懐しています。とても分かりやすく、説得力があります。人間、死が近くなるとやはり本道に戻るのでしょう。
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