2010年3月23日火曜日

神秘主義で鏡を使うことについて、また鏡の世界と向こうのフィールドとの関連について


この世で古今東西、鏡にまつわる不思議な話は実に多い。未来を知る話や瞑想に使用するなど、それこそ鏡による神秘的な話は山ほどある。(図は鏡の国のアリス)
そのことについて先日、お香を立てて、じっとロウソクの炎を見つめていて、ふと気付いたことがある。
何に気付いたのかというと・・・・。
このブログ二月四日に「幸いなるかな、悲しむ者」で、ヤコブ・ベーメ風のアプローチによって、この世の存在は、背景にある本質の鏡像である、と書いたことである。
つまり、この世が鏡像であるならば、鏡に映った像こそ存在の本質のオリジナルに近いのでは?・・・ということである。となると、当然向こうのフィールドの本質は左右が逆となっていることだろう。


鏡像で思い出すのは鏡文字だ。ベーメやレオナルド・ダヴィンチ、ルイス・キャロルは好んで使っていた。鏡文字とは文字を反転させ、さらに文字の進行方向も逆にしたものである。当然鏡に映すと普通に読めるようになる。このことはこの世の形態だけでなく、その意味も鏡像であることを示唆しているようで興味深い。また、モーツァルトは楽譜を鏡文字のように、第1小節から演奏しても、最終小節の最後の音符から逆に演奏しても同じになるように作曲したものがあると以前何かで読んだことがある。

 つまり、この世が鏡像であるならば当然向こうのオリジナルはその逆である、つまりこれは「悲しむ者は幸いである」は、「向こうのフィールドにあっては、」という但し書きを付けると当然のこととなる。こちらの世界では「傲慢、思い上がった者は幸い」となっている。鏡について考えてみるとなかなか面白い。

鏡が宗教的、神話的、民俗学的、芸術的に扱われるのも当然だと思う所以である。

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