「酔っぱらいの戯言」・・・ユングのUFO論をお読みになった方は、ユングが酔っぱらって書いただろうという印象を持っただろう。それほどにつまらない書だ。
また、MJ12等の怪文書・・・ハ虫類的宇宙人とアメリカ合衆国が結託し、という幼稚園児を脅すような内容だ。
先進諸国のUFOに関する公的機関の存在や、アメリカ合衆国でのUFOに関する下院での公聴会が行われたことや、最近、英国のUFO情報機関が「研究の結果、UFOなんてありません!」と言い残して閉鎖されたこと、世界各地でUFO目撃があり、YOU TUBE でその映像が逐一公開されていること、デイスカバリーチャンネルのUFOハンターなる番組も好調であり、UFOに関しての情報はどこからでも飛び込んで来る。
また、UFOの乗組員はグレイという宇宙人であるということにもなっている。
さて、UFOが実在するとしたら、その乗り物を操縦する宇宙人は一体どんな存在なのだろうか。深く考えてみたことがあるだろうか。しかし、考えてみようにも、どこがやっているのか分からないレベルの低い情報操作に撹乱されるのが関の山だろう。
結論から言うとUFOは実在する。見ようと思う意志があれば、驚くほど簡単に見ることができる。見たいと思う方は、ぼくと小旅行に行けば、まず間違いなく空を行く説明不可能な光を見ることができる。それほどにUFOは日常的にこの地球を訪れている。
ではどこから来ているのかというと、どうやら我が太陽の惑星(地球や火星)ではないようだ。ほかの太陽系の惑星を考えるほかはない。
ところが、我が太陽のお隣の恒星、プロキシマ・ケンタウリまでの距離はというと、4.22光年ある。光の速さで4.22年かかる。
無人探査機のボイジャー1号 (17km/s) で7万年以上、有人で最も速い乗り物であるアポロ宇宙船 (10km/s) で12万年以上かかる距離である。
現代最先端科学でがんばってもとても無理、ちなみにこの地球の7万年前といういうとウルム氷河期が始まった頃だ。そして約1万年前に暖かくなり始めて現在に至っている。7万年とはそのくらいの時間である。では一っ飛びに隣の銀河まで行くというと・・・ああアホらし。
我が人類の科学力は、お隣の太陽にも行けないのである。ちょうど金魚鉢の金魚が生命維持装置に身を包んで水のない空気中でも泳げるようになって?金魚鉢の周りをうろうろしているようなものだ。とてもじゃないが、太平洋までは当分無理だろう、そんな感じである。そして、プロキシマ・ケンタウリのそのお隣の太陽までの距離というと、大体5~20光年くらいかかる。星々はこの銀河系でも広大な空間にポツン、ポツンと存在しているにすぎない。
うーん、だとするとどっかの星からUFOに乗った宇宙人が地球に来ているとすれば、とてつもない科学力を持っているか、あるいは人類とは違った方向の科学を持っているかのどちらかになる。そうでなければ、何光年もの距離を行ったり来たりできるわけがない。
人類は氷河期が終わってから、石器から磨製石器、土器をつくり、その延長上の道具を限りなく作り出したが、現代のような道具に囲まれた生活をするようになるのに約一万年かかった。それでは、このままコンピューターやロケットなどの道具を作り続ければ、いつかはお隣の太陽まで行けるようになるのだろうか?
おそらく答えはノーだろう。人同士、殺人、拷問、強姦、略奪ということを際限なく続けているからだ。戦争、暴力だ。こうしたことを続けていると、知的好奇心や楽しみ、優雅な踊り、謙虚な態度、美しいことがなおざりにされてしまうことになる。人類の目的が、人類同士との闘争に明け暮れ、軍事的、貨幣的が優先されてしまい、知性が滅びてしまうからである。つまり、この文明は破局を迎えてしまい、進歩が止まり、隣の太陽まで行くことのできる科学力をは期待できない。
まあ、別に進歩などあってもなくてもいいのだが・・・そう進歩がなくても、古代人は・・・驚くことに英国のストーン・ヘンジの石を350キロメートル離れた所から持ってくるというとてつもないことをやっている。350キロメートルと言えば東京から名古屋の先までの距離だ。コロを使って、草や木の皮で作ったロープで引っ張ってきたのだろうか。途中の川や山をトン単位の石をどうやって運んだのだろうか。
350キロメートルは350000メートルだ。古代人が一日100メートル運べるとすると、(それが可能かどうか分からないが)3500日かかることになる。約10年だ。数千年前に10年に渡っての食料調達と人員の確保・・・ロープで引っ張るとすれば数人では無理だから、まあ数十人は必要だろう。おっと、山や川はどうやって渡ったのだろう?木製の起重機を作ろうにも道具は石器である。ぼくは収集した縄文時代のサヌカイトの石斧を、いい具合の木を切ってはめ込んでみたのだが、もちろん鉄器であるノコギリを使った。もしノコギリがなく、石器しかなかったら石斧をはめ込む溝作りだけでも大変な作業だと思う。
それから考えてみれば、木材を適当な形にして巨大な起重機を作るのはおそらく石器だけでは無理だ。石器による道具作りと、木の皮や草で編んだロープとコロを使って運んだと考えるのには無理がある。でも、学者はそうだと言い張る。
不思議な話である・・・学者の話が、ですよ。
はて、UFOのことなのになぜ古代遺跡の話?
そう、お思いになられるでしょう。
実は、現代のような科学・技術の無い太古・古代には現代の視点から見て、説明不可能な不思議なことが山ほどあることを言いたいのです。Out of Place artifacts(場違いな工芸品)・・・いわゆるオーパーツが存在するが、一般論はこれらをちっとも不思議ではないと結論付ける。例えば、数十年、数百年かければそんなこと可能ですよ、とか、そんな本や地図は偽書・捏造です、と足早に結論を出す。つまり、オーパーツなんてよく見れば古代・太古でも可能だったんですよ、そんな知識あるわけがないじゃないですか、えーっ、ナスカの地上絵だって、きちんと測量すれば地上で描けることが証明されていますよ、などとにかく否定する。でもね、なぜ高空からでなければ分からない絵を当時の人々が描いたのでしょう?という答えにはならないし、その測量技術にしても、古代の人がどんな道具を使ってどうやって測量したの?ということの答えにもなっていない。
アカディミズムは自分らで分からないことは、否定するか無視するという態度を取る。なぜ事象に対して真摯になれないのか、まったくもって不思議なことである。学問とは知的探求でしょう。まさかボス教授に媚びへつらうことではないでしょう。
「そんな訳の分からないことやっていたら、あんた顰蹙かってるんだよ、それじゃあ研究費つかなくなっちゃうよ、いいかげんにしなさい」
「すみません、これから大学や企業や国家の役に立つ研究をやります」
そんな会話も想像してしまいそうに、貧しい学者が多いのではと思ってしまう。
「UFO研究!あのね複雑系の先生だって、スタンスは唯物論だよ、魂だUFOだなんて言ってないで、まともな研究しなさい」
では、まともな研究とはなんだろう。
はい、人間中心主義と言いながら庶民は人間ではなく烏合の衆と規定し、暴力とマネーとエロ好きな低脳な権力者の言いなりになることですね。
動植物を徹底的に殺し、美しい自然を破壊して、除草剤をバンバン撒くゴルフ場で、ビール片手に「ああ、自然っていいなあ」なんて言う低脳な輩に与することです。
もしかすると、この皮肉さえ理解しない連中かもしれません。
さて、UFO論なのに学校の先生や権力者の悪口と、オーパーツやストーンヘンジ・・・・
どこがUFOなのか?
それに天使?とどう結びつくのか?
ごもっともです。ここでのUFO論は矢追さんやその筋の情報とは大分違います。
以上が「UFO論は天使論」のプロローグなのですが、また日を改めて書きたいと思います。でも、このブログにお越しになる方はもうお察しがついたと思います。そうなんです、実はUFOとは・・・。
2010年4月1日木曜日
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