2010年4月14日水曜日

「余暇と祝祭」ヨゼフ・ピーパー 稲垣良典訳 講談社文庫 より


絵はカラバッジオのユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母マリアと幼子イエス、マリアの夫の聖ヨセフを描いた「エジプトへの逃避途上の休息」だ。ヨセフの楽譜を見て、天使がバイオリンを弾いている。マリアとイエスはうたた寝をしている。予言者の乗り物であるロバも耳を傾けている。

われわれも人生において、諸々のものに追われ続けていると感じることがあるが、ゆっくりと休息を取るとそれが錯覚であることに気付く。

むしろ余暇は人生にとって、主なのだとヨゼフ・ピーパーは語る。

だからこそ休息に天使が舞い降りる。下記に引用するのは、「余暇と祝祭」から・・・。


【カントは、哲学することは「ヘラクレス的労働」だ、という言い方をしていますが、彼はそのことをたんに哲学することの特徴だと考えているのではありません。むしろ、彼によると哲学は「労働」であることによってはじめて正当化されるのです。いいかえると、ある哲学が真実の哲学であるかどうかを決める基準は、それが「ヘラクレス的労働」であるかどうか、ということなのです。
カントにとって「知的直感」は「ただで」手に入るものだからです。カントが「知的直観」から実質的な認識の成果をなにも期待しなのは「直感」というものはもともと苦労しないで得られるものだからです。
 しかし、こうした考え方をした場合、認識の「真理」を保証してくれるのは、認識のためにはらった「苦労」なのだ、という結論にたどりつくのではないでしょうか。
じつは右にのべた見解は、あの厳格主義の倫理学の立場と似かよっています。つまり人間が自然の働きにしたがってーということは、らくらくと、苦労もしないでー行為するのは真実の道徳をゆがめるものだ、という立場です。・・・・つまり(カントにとって)善というものはそれをなすことが困難であればあるほど、より崇高なものだというのです。シラーのつぎの二行詩は、この立場の弱点を見事についています。
『わたしは進んで友人を助ける、が残念ながらそうすると気持ちがよい、そこでわたしは度々なやむ、わたしには徳がないのではないか』
「苦労することは善だ」という見解に対立して、トマス・アクイナスは神学大全でおいてつぎのテーゼを立てています。
「徳の本質はそれが到達困難であることのうちにではなく、むしろそれが善であることのうちに見いだされる」したがって「より困難なことをすればそれだけ大きい功徳あるというわけではない。むしろ、より困難なことは、それが同時に、より高い意味で善であるときにはじめて、より大きな功徳があるのだ」】


 先に「アンチクリスト」で、ニーチェがカントを「カントの理論は酔っぱらいのヨタ話」とこきおろしているのをご紹介したが、穏便な表現ではあるが、ピーパーも同様にこきおろしている。
仏陀が荒修行に限界を感じたのも、そういうことではないだろうか。歯ぎしりをして、前だけを見て他者など気にもかけずにしゃにむに突き進む、もうそんなバカな文明はやめよう。「形而上学的、神学的立場からいえば「怠情」とは人間が自分の本来の存在と究極的に一致しないことを意味する」とピーパーや言う。
現代文明は、見栄を張って外面ばかりを気にして、自分をしっかりと見ない怠け者の文化であると言える、ということであろう。

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