2010年5月26日水曜日

箇条書きのような・・・


折を見て「ナグ・ハマディ」の精読に努めている。当然のことだが、なかなか読み進めない。「ヨハネのアポクリュホン」「トマスの福音書」「真理の福音書」などは何度も読み返している。また新約・旧約聖書や旧約聖書外典(アポクリファ・聖公会出版)などを手元に置いて参照している。そしてこれらを読み比べてみると正典の四福音書は実によく整っている。それもそのはず、マルコ福音書などは12宮星座の順序によって編まれているという説もある。聖典を記憶するために、整えられたということである。

記憶術の一つに自分の家を対象にするというものがある。例えば四つの単語を覚える時に玄関、廊下、居間、書斎に一つずつあてはめていくもので、玄関を思い浮かべると同時にその単語が脳裏にわき上がってくるようにする技術だ。単語を自分と密着した場面に置いていき、即座にエピソード記憶にして長期記憶としてしまう、という手法である。数字や記号を使うよりはずっとやりやすい。なんとなくインド式計算法の感覚に似ているような気もする。

マルコ福音書の構成が12宮星座に当てはめていったのでは、という推理はなかなか面白い。この説明をここで12星座全部について、その説の引用をするにはこのブログではできないので、ご興味のある方はメールを下さい。ご説明いたします。


さて、四福音書は時系列に沿っているし、物語的というか文学的に他の文書とは違ってよく整っている。相当手が入っているという印象が強い。例えば仏典の初期に編纂された「スッタニパータ」と大乗仏典のような違いを感じた。つまり仏教経典もキリスト教典も初期のものは、ほとんど箇条書きのような形式だが、仏陀入滅後、キリスト昇天後からかなりの年数が経てから編纂されたものは文学的にも物語的にもよく整っているのである。

しかし「創世記」や「出エジプト記」「ヨブ記」など旧約聖書が整っていることとは別の問題である。なにしろ、旧約聖書はユダヤ教のものだし、新約聖書は時間的に旧約の上にあって成立しているものだから。例えば「イザヤ書」の53章にはキリストが世に出ることを預言していることなど・・・。また、龍樹など般若部の経典などはまた別の視点から見なければならないのは当然である。
ここで問題としているのは、イエスや仏陀の言動、行動の表現方法ということである。

仏典「スッタニパータ」の冒頭の部分は次のような箇条書きだ。
一 怒りが起こったときには、全身に拡がる毒を薬草でおさえるように、その怒りをおさえる出家修行者は此岸をも彼岸をも捨て去る。蛇がもとの抜け殻を捨て去るように。

二 水に潜って池にはえている蓮華を切り取るように、愛欲をまったく切り取ってしまった出家修行者は、此岸をも、彼岸をも捨て去る。蛇がもとの抜け殻を捨て去るように。

三 奔流の水を涸らせ、渇望ををまったく切り取ってしまった出家修行者は・・・・


聖書外典「ソロモンの智慧」
一 地を治むる者どもよ。義を愛せよ。正しきをもて主を思い、まごころもて主を求めよ。
二 主は、主を試むることなき者に見いだされ・・・


ナグハマディ写本「トマスの福音書」

三六 イエスが言った・朝から夕まで、何を着ようと思いわずらうな。

(マタイ伝福音書第6章28説には「また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」・・・極めて文学的表現となっている)

三七 彼の弟子たちが言った。「どの日にあなたは私たちのものに現われ、どの日に私たちはあなたを見るでしょうか。

イエスが言った。「あなたがたがあなたがたの恥を取り去り、あなたがたの着物を脱ぎ、小さな子供たちのように、それらをあなたがたの足下に置き・・・

 マタイ・マルコ・ルカ・・・そしてヨハネによる福音書はご存じだろうが、こうした箇条書き的ではない。

0 件のコメント:

コメントを投稿