2010年5月24日月曜日

ナグハマディ写本


  喫茶ギャラリーZAROFFでUFOシャンソンの企画に参加していることを前に書きましたが、その際グノーシス思想のナグハマディ写本を使う予定があります。 一昨年に書いたメモを下記に置きます。



ナグ・ハマディ写本はエジプトのナグ・ハマディ村でアラブ人の一農夫が大きな瓶に入っている52本の写本を偶然発見したものである。発見場所はナイルからほど遠くない山の麓だが、まず行く機会は得られないだろうから、グーグル・アースで見てみるとそこは荒涼とした岩山だ。発見場所から8キロほどのところに、かつて四世紀にパコミオスが創設した「パコミオス共同体」の遺跡がある。1600年前、ここの修道士の一人がこのパピルス古写本を埋めたのだろうと推測されている。

西暦紀元170年頃、当時のキリスト教は極めて多様性に富んでおり、グノーシス思想をはじめとしてユダヤ教、ヘレニズム思想、ストア哲学、オリエント思想、そして仏教・ヒンズー思想が混在していたようだ。まるでマニ教の前身のようでもあった。(現在の仏教、回教、キリスト教などを統合したようなかつての世界宗教。マニ教ではナグ・ハマディで発見されたトマス福音書も聖典の一つとなっていた。)
当時キリスト教はローマ帝国の弾圧にもかかわらず、驚くような早さで信者が増えていた。現在のフランスに地にて司教を務めていたエイレナイオスはそのような多様性からカトリック(普遍的統一教会)の構築を目指し、自らが正典と認めたマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書以外の福音書とグノーシス文書を徹底的に批判していた。


その約二百年後、ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を合法化すると、権力指向であったそのときの司教アタナシウスは325年の皇帝臨席のもとのニカイア会議を受けて、エイレナイオスのカトリック構築の手法を踏襲した。ここにカトリックが成立した。エレーヌ・ペイゲルス「禁じられた福音書」には当時の様子が記されている。


当時のヨーロッパではカトリックの構築は着々と進んでいたが、エジプトのキリスト教徒は反抗的であった。そのため正典以外の文書をことごとく破棄するようエジプトのキリスト教徒に命令した。エイレナイオスの考えをさらに強く押し進めたアタナシウスがエジプトの多様なキリスト教徒を自分の監督下に置こうと、ニカイア会議で決めた聖典以外の文書は全てけがれた偽書であるとして、読むことはもちろん所持してもいけないという命令を出した。アタナシウスがローマの軍事・経済力を背景にしているのでエジプトのキリスト教徒はこの命令に屈せざるを得なかったが、アタナシウスの命令に背きパコミオスの修道士が後世ナグ・ハマディ写本と呼ばれる52のパピルス文書を修道院から持ち出してひそかに山の麓に埋めていたことは誰も知らなかった。完璧な「焚書坑儒」は1600年前間功を奏しさたかに見えたが、1945年ついに封印が解かれた。




そして現代キリスト教世界とその周辺に凄まじい波紋を描き出すこととなったのである。
マタイ・マルコ・ルカの共観福音書のもととなるQ資料ではないのか!
創造主はデーミウールゴスという悪神であり、物質世界を作って人間の魂を物質に閉じこめた!
眞なる神はデーミウールゴスの上位にあり、人間はグノーシスによってこの眞なる神を知ることができる。
イエス・キリストは神と同等ではなく人間である。
われわれはグノーシスによって誰でもがキリストになれる!・・・・マグダラのマリアはキリストの奥さん、アラム語で双子の意味をもつトマス・・・キリストの双子の弟でインドに赴いて布教を行い、その知識をもとにして「トマス福音書」を書いた!
「真理の福音書」はヴァレンティノス派がグノーシスを得るために行う儀式の際に読誦されたのではないか?
「ヨハネのアポクリュホン」が描き出す創世の話は正典の神話的創世記とはまったく異質で難解な哲学書だ。「アルコーンの本質」に至っては・・・・。正典である「ヨハネの福音書」はエイレナイオスの時代にカトリック運動を推し進めるために作られたものではないか?
だから他の三福音書と様相が違う?
しかしキリスト教の異端であると烙印を押されたグノーシス派は1600年間営々と秘密裏にそれを述べ伝えていた?
 


ナグ・ハマディ文書の日本語訳は極めて難解だが、おそらくコプト語やギリシャ語であっても同様に難解だろう。正典と違って欠損箇所がありあまり脈絡がない。時制的連続性もない。しかも箇条書きのスタイルが多い。




カトリックが正典と認証したマタイ・マルコ・ルカ、そしてヨハネ福音書のように物語的、文学的な体裁はあまりない。研究者によればこうしたナグ・ハマディのスタイルは「キリスト語録」のようなものを底本にして書かれたもので、四福音書のようにキリストの伝記として書かれたものではないからだろう、としている・・・となると、潤色されていないキリストの言葉に近いのではないか・・・そんな思いもする。




読者を対象にして書かれたものではなく、最も初期の仏典「スッタニパータ」のようなものに比定されるのではないか。また仏教におけるそれぞれの部派仏教の「ニカーヤ」のようなもので、まだ体裁が整えられていない段階のキリスト教の聖典と位置づけることができるかもしれない。


仏教経典が「如是我聞・・・」という書き出しを踏襲しているが、例えば「トマスによる福音書」は一行一行が“ Jesus said. “ で書き出されている。キリストの言葉の「如是我聞」なのかもしれない。




とにもかくにも、現代キリスト教を根底から揺り動かしてしまうような凄まじい文書群がナグハマディ写本なのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿