絵は「荒野のキリスト」である。
ぼくはこれまで、高度な知識を携えた宗教組織には高貴な何かがあると考えていた。
ところが、歴史を紐解くと仏教やキリスト教組織のおぞましいばかりの悪行(戦争・殺人・奴隷売買・略奪など)は数知れない。十字軍の悪辣な行為、魔女裁判のおどろおどろしい事実、「天皇のロザリオ」にあるように聖人の行う残酷な行為、勧進聖たちの守銭奴的行為、戦闘や徴発を行う僧兵、権力と癒着した仏教組織・・・莫大な富を集めた結果の華麗な建築物(バチカン・法隆寺・国分寺などなど)が愛や慈悲に則っているとはとうてい考えられない。
それは、宗教権力者が仏教やキリスト教を正しく解釈していないからであり、宗教組織の存在は人類にとって必要であり、いつかはそれが人類を高い叡智に導くのだろう・・・とぼくは漠然と思っていた。
だが、宗教がなしてきた数々の悪行と善行を比べてみるとどうだろう。まったくのぼく個人的感想だが、宗教組織のバランスシートは宗教権力の維持に50パーセント、それに伴う悪行に30パーセント、意味のない堕落的行為に19パーセント、そして善行に1パーセント・・・そういったことに集めた富を費やしてきた、そんな感じに見える。
宗教組織のバランスシートを見てみたいものだ。けばけばしい建物の費用、おびただしい官僚的人員の費用、神や仏をきちんと意識もしない組織拡大と維持のためのプロパガンダや儀式の費用、またトップや取り巻きたちの乗る高級車や別荘の費用、彼らが囲う愛人の費用・・・。
もし、宗教組織のバランスシートを見たら、多分世間は仰天するだろう。このことに宗教組織の経理担当は反論できない。反論したいのなら、バランスシートを開示しなければならないから。
仏陀から2500年、キリストから2000年・・・相変わらず戦争・犯罪は限りなく続いている・・・宗教組織は人類の平安をはじめから度外視している。
現代まで続いているそうした宗教組織は政治的権力、暴力的権力、経済的権力となんら変わりはない。
御殿の中で涼しい顔をして愛や慈悲を唱える宗教権力者は、思い上がった罪人である。彼らは人類を貶めている。
社会的動物である人類を導くには、組織や財力、暴力が必須なのであり、それはいたし方のないことであり、現実を直視すればそうした手段を選択することは当然のことであると、考えている。しかし、われわれをどこへ導こうとしているのか?
これまで数千年間何もしなかったに等しい。いや、彼らの組織は人類にとって無いほうがかえって良かっただろう。
ニーチェの言葉を借りれば、彼ら宗教組織はペテン師だ。
宗教組織のどす黒い権力者は思い上がっている。向こうのフィールドを無視した即物的低脳の輩だ。自らの現世的物質的恩恵を求める守銭奴であり、権力を振り回すことによって人類を貶めている。愛だ慈悲だと叫びたいのなら、まず集めた富を人々に返すべきである。
2000年も2500年も愛や慈愛を説いている宗教がこれまで一体何をしてきたのだろうか。自己欺瞞と思い上がりの上に構築された虚偽の教えで人々を支配してきただけだったと、自らを神や仏の前で反省するべきである。
(するわけがないだろうが・・・宗教者の思い上がりは半端ではなく、自らを善なる存在だと信じる確信的背徳となっている。彼らが神や仏と呼ぶ存在は確実にサクラスと呼ばれるデーミウールゴスであり、悪徳の権化である。
どす黒い肥った豚とヤコブ・ベーメが呼ぶ存在が古今の宗教者である。
口から先に生まれたようなおしゃべりな聖職者がその教義の根拠をどこに置こうとも、彼らの為してきたことは悪行であった。免罪符を売り、鹿食免を売ってきた。また当然だが近現代の新興宗教も同罪である。)
そうした、宗教者の思い上がりは、宗教の解釈に問題があるのではなく、流布されている宗教とその概念そのものが間違っていると言わねばならないかもしれない。
どういうことかと言うと・・・・。
もし、イエス・キリストがバチカンの前を歩いたとしたら、彼はその建物が自分の教えのもとに建てられたとは考えもせず、うっかり素通りしてしまうだろう。
豪華な建物の中で愛だ慈悲だと叫んでいる彼らを偽善者か狂人だと思うだろう。
なぜなら、豪華絢爛な建物の中で行い澄ます・・・バイブルを読めば分かるが、イエス・キリストは一回だってそんな行為をしていない。
もし、仏陀が奈良や京都の大寺院の前を歩いたとしたら、彼はその建物が自分の教えのもとに建てられたとは考えもせず、うっかり素通りしてしまうだろう。
豪華な建物の中で愛だ慈悲だと叫んでいる彼らを偽善者か狂人だと思うだろう。
なぜなら、豪華絢爛な建物の中で行い澄ます・・・仏陀は一回だってそんな行為をしていない。
仏陀存命中に書かれた当時の紳士録であるイシバーシヤーイムにはシャーキャームニ・ゴータマ・シッダールタの名は記されていない。代わりに仏教の開祖としてシャーリプトラの名があげられている。
彼ら宗教組織の権力者たちは知らないだろうが・・・・神や仏のような超存在は確実に実在しているし、霊的世界はほんの肩越しに誰もが自覚できる近さにある!
ところが、歴史を紐解くと仏教やキリスト教組織のおぞましいばかりの悪行(戦争・殺人・奴隷売買・略奪など)は数知れない。十字軍の悪辣な行為、魔女裁判のおどろおどろしい事実、「天皇のロザリオ」にあるように聖人の行う残酷な行為、勧進聖たちの守銭奴的行為、戦闘や徴発を行う僧兵、権力と癒着した仏教組織・・・莫大な富を集めた結果の華麗な建築物(バチカン・法隆寺・国分寺などなど)が愛や慈悲に則っているとはとうてい考えられない。
それは、宗教権力者が仏教やキリスト教を正しく解釈していないからであり、宗教組織の存在は人類にとって必要であり、いつかはそれが人類を高い叡智に導くのだろう・・・とぼくは漠然と思っていた。
だが、宗教がなしてきた数々の悪行と善行を比べてみるとどうだろう。まったくのぼく個人的感想だが、宗教組織のバランスシートは宗教権力の維持に50パーセント、それに伴う悪行に30パーセント、意味のない堕落的行為に19パーセント、そして善行に1パーセント・・・そういったことに集めた富を費やしてきた、そんな感じに見える。
宗教組織のバランスシートを見てみたいものだ。けばけばしい建物の費用、おびただしい官僚的人員の費用、神や仏をきちんと意識もしない組織拡大と維持のためのプロパガンダや儀式の費用、またトップや取り巻きたちの乗る高級車や別荘の費用、彼らが囲う愛人の費用・・・。
もし、宗教組織のバランスシートを見たら、多分世間は仰天するだろう。このことに宗教組織の経理担当は反論できない。反論したいのなら、バランスシートを開示しなければならないから。
仏陀から2500年、キリストから2000年・・・相変わらず戦争・犯罪は限りなく続いている・・・宗教組織は人類の平安をはじめから度外視している。
現代まで続いているそうした宗教組織は政治的権力、暴力的権力、経済的権力となんら変わりはない。
御殿の中で涼しい顔をして愛や慈悲を唱える宗教権力者は、思い上がった罪人である。彼らは人類を貶めている。
社会的動物である人類を導くには、組織や財力、暴力が必須なのであり、それはいたし方のないことであり、現実を直視すればそうした手段を選択することは当然のことであると、考えている。しかし、われわれをどこへ導こうとしているのか?
これまで数千年間何もしなかったに等しい。いや、彼らの組織は人類にとって無いほうがかえって良かっただろう。
ニーチェの言葉を借りれば、彼ら宗教組織はペテン師だ。
宗教組織のどす黒い権力者は思い上がっている。向こうのフィールドを無視した即物的低脳の輩だ。自らの現世的物質的恩恵を求める守銭奴であり、権力を振り回すことによって人類を貶めている。愛だ慈悲だと叫びたいのなら、まず集めた富を人々に返すべきである。
2000年も2500年も愛や慈愛を説いている宗教がこれまで一体何をしてきたのだろうか。自己欺瞞と思い上がりの上に構築された虚偽の教えで人々を支配してきただけだったと、自らを神や仏の前で反省するべきである。
(するわけがないだろうが・・・宗教者の思い上がりは半端ではなく、自らを善なる存在だと信じる確信的背徳となっている。彼らが神や仏と呼ぶ存在は確実にサクラスと呼ばれるデーミウールゴスであり、悪徳の権化である。
どす黒い肥った豚とヤコブ・ベーメが呼ぶ存在が古今の宗教者である。
口から先に生まれたようなおしゃべりな聖職者がその教義の根拠をどこに置こうとも、彼らの為してきたことは悪行であった。免罪符を売り、鹿食免を売ってきた。また当然だが近現代の新興宗教も同罪である。)
そうした、宗教者の思い上がりは、宗教の解釈に問題があるのではなく、流布されている宗教とその概念そのものが間違っていると言わねばならないかもしれない。
どういうことかと言うと・・・・。
もし、イエス・キリストがバチカンの前を歩いたとしたら、彼はその建物が自分の教えのもとに建てられたとは考えもせず、うっかり素通りしてしまうだろう。
豪華な建物の中で愛だ慈悲だと叫んでいる彼らを偽善者か狂人だと思うだろう。
なぜなら、豪華絢爛な建物の中で行い澄ます・・・バイブルを読めば分かるが、イエス・キリストは一回だってそんな行為をしていない。
もし、仏陀が奈良や京都の大寺院の前を歩いたとしたら、彼はその建物が自分の教えのもとに建てられたとは考えもせず、うっかり素通りしてしまうだろう。
豪華な建物の中で愛だ慈悲だと叫んでいる彼らを偽善者か狂人だと思うだろう。
なぜなら、豪華絢爛な建物の中で行い澄ます・・・仏陀は一回だってそんな行為をしていない。
仏陀存命中に書かれた当時の紳士録であるイシバーシヤーイムにはシャーキャームニ・ゴータマ・シッダールタの名は記されていない。代わりに仏教の開祖としてシャーリプトラの名があげられている。
彼ら宗教組織の権力者たちは知らないだろうが・・・・神や仏のような超存在は確実に実在しているし、霊的世界はほんの肩越しに誰もが自覚できる近さにある!
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