2010年7月6日火曜日

未知との遭遇


このタイトルだと宇宙を思い浮かべるだろう。
でも考えてみると、そこは推理類推できる既知なる所だ。科学であらかじめ知り得る範囲と言える。何故なら、光学望遠鏡や電波望遠鏡で見ることができるし、素材は地球にあるものと同じもので元素周期表の範囲を出ない。温度も高い低いだけのことで、その存在を理解できる。不可思議に思えるだけである。

ではわれわれにとって本当に未知の世界とは・・・・。
深遠なる宇宙よりも、ずっとずっと未知の世界・・・。
死の世界だ・・・そここそ、まさに未知の世界。
数々の宗教教典が,そこについて述べ、臨死体験の本が山ほど出回っている。でもあいかわらず分からない未知の世界。
死の世界こそ、生きている人間にとって未知の世界。

人は必ず死ぬというのに、その世界を誰も正確には知らない。

未知との遭遇、そんな映画もあったが,死との遭遇の方が重要だ。
誰にでもやってくる平凡な事象だが、人生においてもっとも頭を悩ます問題だ。
なぜ、こんなに平凡なことなのに、きちんと取り組んで考えないのだろう?

宗教者に質問しても、常套句で煙にまかれるだけ。彼らも、物質的なことに翻弄されているのだから無理もないが、それにしても情けないことだ。
あの世があるのなら、あると答えるべきであり、無いのなら無いと答えるべきであるが、ほとんどの宗教者はこのことを駄弁と詭弁だけでお茶を濁し、ぺらぺらおしゃべりするだけ。

確かに、生きるということは結構忙しい。
宗教者だけにかぎらず、必ずやってくる平凡な事象だというのに、われわれは忙しさにかまけてなおざりにしてしまっている。

われわれが本気で取り組まなくてはならないのは一体どちらだろう。宇宙だろうか,死の世界だろうか。
どちらも重要だ、などと逃げてはいけない。

人生において死より重要なことはない。

ぼくは今回癌になった。しかし、命乞いをする気持ちになれない。
なぜなら、夜も眠れるし、転移についてもそれが恐怖の対象ともなっていない。今のところ死の恐怖もない。ただ、宗教者と違って三才のころからこれまでずっと死のことを考え続けてきたが、このような自分を傲慢だと思う。この平凡な事象に対して真摯に考えることができないからだ。
神秘体験を含むこれまでのいろいろな体験から、死は当然のことであり、人生は死と生の両面のバルドゥをワンセットにしていると思っている。なぜ今生にさほど未練や禍根の念を抱かないのか。
明らかにぼくは傲慢だ。そのことが気になってしようがない。

その傲慢さについて、ぼくは不安と不満と猜疑を自分自身に持っている。
死への恐怖よりもそれが理解できないことがぼくにとって重要だ。

生きているのに、この世界を浮き世的感覚で過ごしてきたのではないか。これは生に対する冒涜ではないだろうか。未知の世界の存在を確信しているが故に、またおぼろげにその風景を垣間見てきたことが、ぼく自身を貶めている。

現在のぼくの未知の世界に対する感想である。

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