「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
ご存じのようにこれはヨハネによる福音書の冒頭の部分である。
「ロゴス」λόγοςはギリシャ語で「ロゴスを最初期に世界原理とした哲学者はヘラクレイトスだ。ヘラクレイトスは世界の本性であるアルケー(原子の意味ではない)が火また闘争にあると説いた。そのような絶えず流動する世界を根幹でつなぐのがロゴスである、とされた。ロゴスはここでは、世界を構成する言葉、論理として把握される。」のロゴスである。
また、ヤコブ・ベーメは「アウローラ」の中で、「万物は言葉によって成った」の「成る」という語句を詳しく説明している。
福音書書記のヨハネがこうしたギリシャ哲学を借用していることは明白だ。この福音書が指している「言」とは、話し言葉や文章に使ういわゆる言葉ではない。世界原理としてのロゴスだ。
ご存じのようにこれはヨハネによる福音書の冒頭の部分である。
「ロゴス」λόγοςはギリシャ語で「ロゴスを最初期に世界原理とした哲学者はヘラクレイトスだ。ヘラクレイトスは世界の本性であるアルケー(原子の意味ではない)が火また闘争にあると説いた。そのような絶えず流動する世界を根幹でつなぐのがロゴスである、とされた。ロゴスはここでは、世界を構成する言葉、論理として把握される。」のロゴスである。
また、ヤコブ・ベーメは「アウローラ」の中で、「万物は言葉によって成った」の「成る」という語句を詳しく説明している。
福音書書記のヨハネがこうしたギリシャ哲学を借用していることは明白だ。この福音書が指している「言」とは、話し言葉や文章に使ういわゆる言葉ではない。世界原理としてのロゴスだ。
多くのキリスト教聖職者が、このロゴスを人を勇気づける言葉とか、気の利いた説教としての話し言葉として勘違いしたり、思いこんだりしたりしているが、ほんといいかげんにして欲しい。
なんでこんな勘違いをするのだろう。勉強不足以前の問題なのに、それがまかり通っている!
福音書記ヨハネは真意がまったく伝わっていないことを、落胆していると思う。
ロゴスの意味はもちろん通常の話言葉の意味ではない。
日本語の言霊やむすひという意味に近いが、ヘラクレイトスはどうやらロゴスを物理的な力であると考えていたのではないだろうか。核力の強い力と弱い力や電磁気力・・・そして重力を含む物理的な力、ものとものとを繋ぐ自然界の四つの力(強い力、弱い力、電磁気力、重力)を想定すると、なるほどと思う。
また、人の心と心をつなぐ物質的でない重力のような力もこれに含んでもいいのではないか。
人の心と心を繋ぐ力も重力に似ていなくもない。近づくほどにその相互作用は強くなるが、離れればその二乗に反比例するほどだ。人は近づけば近づくほど親しくなりやすい。(嫌いになる場合も、近づけば近づくほど嫌いになる。)
原子核は陽子と中性子が強い力によってがっしりと固まっている。そして電子がその周りに存在している。こうした力はまるで強力な糊だが、それらは常に光速で動いている。
ヘラクレイトスが「アルケー(原子の意味ではない)が火また闘争にあると説いた。」・・・原子の世界では、それらが光速で動き回っているが、火または闘争というのはそうした現代物理と同様なイメージだったのではないか。
まるで現代物理学を知っていたかのような表現であるが、宗教経典や古代の哲学書には以外と多くこうした記述が多く残っている。
ヨハネの福音書に限らず、仏教経典にもそう思われる箇所が多々ある。阿頼耶識と無意識、
や大論の九・・「十方恒河沙の三千大千世界を名づけて一仏国土と為す。」
これはまるで多重世界を思わせる。
浅学ながら、これまでいろいろな書に目を通してきたが、「ああここも!いやこれも!」と、何故1000年2000千年前にこうしたことが分かるのだろうと不思議に思っていた。
ヨハネ福音書のこの冒頭の記述もまさに、ぼくの好奇心を大いにくすぐるのである。もし、ぼくがもう少し若ければ、この福音書をラテン語やギリシャ語でおさらいしたいと思う。
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