2010年8月17日火曜日

「・・からの般若心経講話」という本の感想


 高名な仏教研究家の書いた厚い本なのだが、残念なことに的はずれ、勘違い、思いこみによるお説教集だった。
所々サンスクリット語と対照しているが、これがどういう訳か意図的なのかそれとも思い込みか理解できないが、どうも違う。このブログに、半年前「般若心経の音楽的解釈の試み」の作曲の際の考察とも合致しないのも不思議に思う。つまり、中村元先生や涌井先生、マックミューラー先生、コンズ先生の考察と大きく解釈が異なるのである。

そこの所のブログは全てのブログで検索しないと、ここには出てこないのでリンクを以下に置きます。「短絡的な縄文時代賛美」の三つ以下に続けて置いてあります。
http://ebeyukan.blogspot.com/search?updated-max=2009-10-11T20%3A29%3A00%2B09%3A00&max-results=20

この本は、全文に渡って道元やその他有名な書は全て正しいと思いこみ、的はずれな説教を延々と続けます。例えば・・・・長くなりますが引用します。

『本当にみなさん、心から障りをなくし心を清くしていこうではありませんか。
キリスト教には神という概念があります。このキリスト教の神に相当するものが仏教にあるとすれば、それは清浄という言葉で表されるのでは無いかと思うようになりました。しかしこの清らかになろう、ということは、仏教だけの特権ではなく、イスラム教であろうとキリスト教であろうと、あらゆる宗教の共通した主張であります。

わたしたちは、もしも心底から清らかであったら、善か悪かと分別する障りがなくなり、善悪にこだわらないおおらかな心でいられるのかもしれません。般若心経の空は、このようなおおらかな心を説いているといえるのではないでしょうか。

すなわち空を実践する、ことを、これから般若心経に学んでいきたいと思います。』

唯識三十頌や大智度論や、涅槃教などの漢訳仏典から次々と引用しながら、際限もなく勘違いと思いこみを仏教に託する説教調です。きっとこの方は自分が相当偉いと思っておられるでしょう。


引用した部分の後に、知識を披瀝するだけで論拠をきちんと説明しませんし、ましてや「清らか」とは何かについても説明しません。ために本当か嘘かわかりませんが、

「しかしこの清らかになろう、ということは、仏教だけの特権ではなく、イスラム教であろうとキリスト教であろうと、あらゆる宗教の共通した主張であります。」

などと「清らか」を説明しないまま、「あらゆる宗教の共通した主張であります。」などと決めつけて平然とします。もし、あらゆる宗教の共通した主張であるならば、ここに「清らか」について考察すべきだと思います。

(龍樹は六十頌如理論で清らかについて触れていますが、この先生のような説教調の清らかさではありません。大乗仏典 第14巻 龍樹論集 中央公論社 に「六十頌如理論」が収録されています。お読みになっていただければ、幸いです。)

この本はこうして曖昧なまま唐突に終わってしまいます。
この高名な学者は、この本で自分の知識をひけらかすだけに終始します。そして、読み終わった人は、「ああ、高名な学者様が言うことだから凄いのだ!」という印象だけで、仏教について何も理解が進まないということになるでしょう。

世の中には、こうした本がなんと多いことでしょう。
お寺の本堂でロック演奏をしたり、ラップのリズムにのせて経典を読んだりする、「仏教の大衆化」を目指す連中と大差ありません。(ロックやラップが悪いと言っているのではありません。勘違いしないで下さい。仏教の大衆化を安易にやろうとすることが仏教的ではない、と言っているのです。仏陀や龍樹や一遍や親鸞は、そうではなかったと言いたいのです。)
この先生は、おそらく宗教的な霊的な存在など認めない人だと思います。唯物論者でしょう。神秘主義なんて、歯牙にもかけないでしょう。
ほとんどの宗教が清らかさよりも、あの世について多く語っていますが、もちろん死の世界も認めないでしょう。死が近づくと深刻な恐怖を味わうでしょう。
知識はお金と同じで、多いほどいいのですが、残念なことにあの世では知識もお金も役に立ちません。

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