(あいずのこおり ながえのしょう ひのえまたむら こうころく)
療養生活の一つとして、資料の整理をしているのですが・・・。
療養生活の一つとして、資料の整理をしているのですが・・・。
ぼくはどこかへ出掛けると、なるべく近辺の博物館や資料館や役場へ行って資料やパンフレットを求めるようにしてきました。例えば有名な所では、高尾山の「高尾山小史・高尾山の草創」には、
「天平年間と申せば、当時、荒地の武蔵野の大平原に、武蔵国府、武蔵国分寺、等々の建設が進み、いわば武蔵の国は国造りの最中であった。そのころ、万葉人により多摩の横山と詠われた山並みの、その主峰的な存在でもある高尾山上に大願成就を祈念しつつ薬王院有喜寺は建立されたものと思われる。その後、永和年間・・・・」
などと草創の歴史が紐解かれ、興味深いものです。
長野県茅野市にある「神長館のしおり」の第一部には、「76代守矢実久に至るまで、神長守矢は、一子相伝の口伝により、歴史を伝えてきたと言われます。77代の祖父真幸も一部、口伝によりご祈祷などを伝授されています。(中略)諏訪盆地には、古事記に書かれた出雲の国の国譲り神話とは別にもう一つの国譲神話がいい伝えられています。(中略)しかし、先住民である洩矢の人々はけっして新しく来た出雲系の人々にしいたげられたりしたわけではありません。」
諏訪ミシャグチの神の話など、学校では決して教えない歴史がそこにはあります。
さて、ブログの表題とした「会津郡長江庄 檜枝岐村 耕古録」は、昭和58年頃ぼくのこどもたちがまだ小さい頃、そこへ家族でスキーに行った時に買い求めた資料です。当時はまだ雪深い田舎道を延々と走らねばならず、現在のように名の知れたスキー場ではなく、小さなゲレンデがあるだけの鄙びた(ひなびた)村でした。
そこで買い求めた「耕古録」のほんの一部をご紹介したいと思います。この冊子の奥書は昭和50年とあります。
この巻末には公民館に所蔵されている資料の目録もあり、資料的価値のある冊子です。これまでの山村の厳しい生活をうかがい知ることのできる資料であり、現代の生活を考える上で必読とも言える冊子でしょう。
こうした冊子は、中央地方を問わず気に留めさえすれば以外と簡単に廉価で手に入るので、旅行の際には購入をおすすめしたいものです。
さて、この冊子には「万書留帳」から抜き書きしたものがあります。
「文化元甲子年より、約60年間の主として生活に関係あるものを当時の名主の書き残した、万書留帳より摘記し見よう。」とあります。
文化文政年間というと、歴史好きな人でさえ、江戸市中の浮かれぶりばかりを話題とするのが常ですが、それは日本史のほんの一部のことでしかありません。
当時のこの列島の人々は、文化文政年間にどんな生活をしていたのだろうかと考えてみることは、歴史を見る際の必須な作業です。「万書留帳」はそうした一つの資料と言えます。
文化 八年 十二月二十五日夜出火、三十六軒向側不残焼失失火元市朗次此為金十六両御貸渡、 無利子四カ年賦返納のこと
同 十一年 九月代官長崎左右ェ門様御泊り六人、四月三日竹村半左右衛門様お泊り、小羽板壱分に付大束四束値段お買上 (小羽板とは屋根の下葺きの薄い板)
同 十三年 去る卯年不作疫病にて死失したる者が多く、そのままになりいたので三十三回忌をなす。
文政 五年 七月十八日大洪水にて橋橋流落・・・
天保 十一年 凶作中・・・
同 十二年 米代両に二石二斗九升八合八勺・・・二十五年賦子孫まで公借・・・・
同 十三年 当年諸作豊作(寒冷地のため米以外の雑穀のこと)
万延 六年 正月ほうき星 八月十三日またまた大洪水 当年疱瘡はやる
慶応 二年 当年諸品追々高値になる、八月七日より八日台風、作物吹倒れ、田畑不熟となる
さらに「狩り場山の記」「方言使用例」「住居」などなど、江戸市中の文化文政期の浮れ とは違う歴史を垣間見ることができます。
不十分ではありますが、リーラーの宇宙の歴史観はそうした側面に重きを置いたつもりです。
「天平年間と申せば、当時、荒地の武蔵野の大平原に、武蔵国府、武蔵国分寺、等々の建設が進み、いわば武蔵の国は国造りの最中であった。そのころ、万葉人により多摩の横山と詠われた山並みの、その主峰的な存在でもある高尾山上に大願成就を祈念しつつ薬王院有喜寺は建立されたものと思われる。その後、永和年間・・・・」
などと草創の歴史が紐解かれ、興味深いものです。
長野県茅野市にある「神長館のしおり」の第一部には、「76代守矢実久に至るまで、神長守矢は、一子相伝の口伝により、歴史を伝えてきたと言われます。77代の祖父真幸も一部、口伝によりご祈祷などを伝授されています。(中略)諏訪盆地には、古事記に書かれた出雲の国の国譲り神話とは別にもう一つの国譲神話がいい伝えられています。(中略)しかし、先住民である洩矢の人々はけっして新しく来た出雲系の人々にしいたげられたりしたわけではありません。」
諏訪ミシャグチの神の話など、学校では決して教えない歴史がそこにはあります。
さて、ブログの表題とした「会津郡長江庄 檜枝岐村 耕古録」は、昭和58年頃ぼくのこどもたちがまだ小さい頃、そこへ家族でスキーに行った時に買い求めた資料です。当時はまだ雪深い田舎道を延々と走らねばならず、現在のように名の知れたスキー場ではなく、小さなゲレンデがあるだけの鄙びた(ひなびた)村でした。
そこで買い求めた「耕古録」のほんの一部をご紹介したいと思います。この冊子の奥書は昭和50年とあります。
この巻末には公民館に所蔵されている資料の目録もあり、資料的価値のある冊子です。これまでの山村の厳しい生活をうかがい知ることのできる資料であり、現代の生活を考える上で必読とも言える冊子でしょう。
こうした冊子は、中央地方を問わず気に留めさえすれば以外と簡単に廉価で手に入るので、旅行の際には購入をおすすめしたいものです。
さて、この冊子には「万書留帳」から抜き書きしたものがあります。
「文化元甲子年より、約60年間の主として生活に関係あるものを当時の名主の書き残した、万書留帳より摘記し見よう。」とあります。
文化文政年間というと、歴史好きな人でさえ、江戸市中の浮かれぶりばかりを話題とするのが常ですが、それは日本史のほんの一部のことでしかありません。
当時のこの列島の人々は、文化文政年間にどんな生活をしていたのだろうかと考えてみることは、歴史を見る際の必須な作業です。「万書留帳」はそうした一つの資料と言えます。
文化 八年 十二月二十五日夜出火、三十六軒向側不残焼失失火元市朗次此為金十六両御貸渡、 無利子四カ年賦返納のこと
同 十一年 九月代官長崎左右ェ門様御泊り六人、四月三日竹村半左右衛門様お泊り、小羽板壱分に付大束四束値段お買上 (小羽板とは屋根の下葺きの薄い板)
同 十三年 去る卯年不作疫病にて死失したる者が多く、そのままになりいたので三十三回忌をなす。
文政 五年 七月十八日大洪水にて橋橋流落・・・
天保 十一年 凶作中・・・
同 十二年 米代両に二石二斗九升八合八勺・・・二十五年賦子孫まで公借・・・・
同 十三年 当年諸作豊作(寒冷地のため米以外の雑穀のこと)
万延 六年 正月ほうき星 八月十三日またまた大洪水 当年疱瘡はやる
慶応 二年 当年諸品追々高値になる、八月七日より八日台風、作物吹倒れ、田畑不熟となる
さらに「狩り場山の記」「方言使用例」「住居」などなど、江戸市中の文化文政期の浮れ とは違う歴史を垣間見ることができます。
不十分ではありますが、リーラーの宇宙の歴史観はそうした側面に重きを置いたつもりです。
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