現今のキリスト教で、イエスの復活について文字通り肉体がそのまま死から甦ったとされているが、なぜこのような理不尽なことがまかり通っているのだろうか。
「聖書に書いてあるから」そうなのだ、とクリスチャンは言う。
残念だが、そう言うクリスチャンは聖書をきちんと読んでいない。口から生まれたような聖職者のおしゃべりを鵜呑みにしているにすぎない。
ルカ伝の24章やヨハネ伝20章や27章を根拠にしているのだろうが、「ナグ・ハマデイ写本 エレーヌ・ペイゲルス 荒井献訳 白水社 42p」を読んでいて気がついた。
ルカ伝24章(生きている状態と同じであることを弟子たちの前で魚を食べる描写の前)やヨハネ伝同じく20章、マルコ伝16章では、イエスの身体はいわゆる生身ではなく、「他のすがた」で現れたという記述だ。実際にふっと消えたりしている。手許の聖書でここを開いているのだが、なるほどと思う。
死海写本やナグハマディ写本を引き合いに出すまでもなく、イエスは人間イエスの側面が大きい。パウロの神よりもイエス・キリストを上位に置くかのような論理は、当時のユダヤでは考えもできないことだ。死んだ人間を神―GODと同列にはできない。
イエスは1世紀にパレスティナのユダヤの地(とりわけ、ガリラヤ周辺)で活動したが、福音書に共通することは、イエスは、ユダヤ教の宗教的指導者であるラビであり、ユダヤを救う者として民衆から待望されていた、キリスト(メシア)だということである。
三位一体もご存知のように会議で決められたことだ。神・子・霊の定義だってちっともきちんとしておらず、理解不能な論理だ。
では処女降誕―ニーチェはこの論理をもっとも不可解な女性蔑視であるとしている。まったくそのとおりだと思う。
一つ一つ、聖書と対照していくのはぼくなどの市井の凡人がやることではないが、やろうとすれば日本語に翻訳された聖書だけでもその誤謬を指摘できる。
歴史書を読まない歴史好きと同様、聖書を読まないクリスチャンが多いことは本当に不思議なことだ。
考えてみれば、キリスト教の母体ともいえるクムラン共同体は、マサダの砦でローマ軍に全滅させられたが、律法を熱心に敬い、外国人を嫌っていた。高潔なラビは現代でもアメリカで莫大な富と権力をほしいままにしているユダヤ人を、「あれは守銭奴ではあるがユダヤ人ではない。」と言っている。ユダヤ教やキリスト教を外国に布教する、ということは本来のユダヤ教やキリスト教の辞書にはないと考えるほかはない。
パウロ(サウロ)、エイレナイオス、アタナシウス、アウグスチヌス・・・・カトリックの構築に寄与した人物についての本はこの国にも山ほど出回っている。図書館に行けばかんたんに借りられる。
2010年10月6日水曜日
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