2010年10月7日木曜日

キリスト教 (4)


キリスト教成立史では、死後のイエスのお姿を生身の形で見たのか、霊的なお姿で見たのかが問題になる。それはキリスト教の主導権争いにもなっていた。使徒たちやマグダラのマリヤが見たお姿はカトリック宗派は生身だったとし、霊的お姿だったとするグノーシス宗派を強力に牽制し、ついにグノーシス宗派を異端として葬り去ってしまった。


ぼくはなんの資質もない凡庸な者だが、少し神秘主義的なところもあるので、こうしたキリスト教の経緯は多少なりとも興味がわく。

まず疑問!

神秘主義的体験がほとんど、あるいはまったくない人が、人が死んでから甦ることをどう考えるだろう。それは死んでしまったのではなく仮死状態だったのだろう・・・それなら納得がいく、と考えるだろう。では、十字架上で窒息しさらにわき腹をヤリでつかれた死体はどうだろう。仮死状態ではないのだから、甦るはずはないと考えるはずだ。

だが、クリスチャンは、それをありえないことだから「奇跡なのだ!」と言う。

おそらく、神秘主義的体験の無いクリスチャンは聖書や聖職者の言うことをもってそれを信じようとする態度だけで、心底から信じてはいないだろう。(ただしボーン・クリスチャンは親子代々受け継がれてきた信条として信じているだろうが。)


教会はちょっと前までは、神に関連すること、祈りなどは教会内だけでしか機能しない、神は人を通じてやってくる、などという物理的な権力者的な無理な注文を信者に押し付けながら・・・にもかかわらず口では超常的宗教的なことを語ってきた。

だが、超常的なことを見もしない、聞きもしない聖職者がなぜ神の代弁者になれるのだろう。言っていることが神や宇宙創造や、霊や三位一体など超常的なことなのに・・・・。

かれらの実生活は超常的なことよりも、教会組織やマネーや人脈、人間関係を優先させている。もとより祈っても・・・神の姿も、神の声にも接したことがないのだからしかたないが。

宗教者の、とくに組織内で出世している人の多くはあまり神秘主義的なことを好まない。宗教教典に書いてある神秘主義的なことを、平気でそれは喩えだと言う。葬式を取り扱う者なのに、ほとんど死後の世界を信じていない。(あるのに!)

霊的体験、霊視、霊聴について、そのすべてを幻視、幻影を見る異常者という感想を持つ人は聖書の記述は嘘ばっかりということになる。もちろん現代の心理学の本や心理学者や精神医からしても、霊的体験は異常なことだということになるだろう。(霊的な体験が異常か否か、嘘か本当かはかんたんに分かるのだが)

そう言えばかつて、ぼくは次のような体験をした。

ある古神道系の宗教団体の幹部らと知り合いになり・・・おかげでぼくは沖ノ島へいくことができたので、そのことに関しては感謝している・・・十数人である霊山へお参りに行った。ぼくはその幹部の人と談笑しながら、山道を登っていたのだが、目の前を山道の上の方からふーっと丸く銀色に輝く40~50センチほどのそれが降りてきた。ぼくは驚いて立ち止まってしまい、ずっとそれを眺めていた。

すると、幹部の人はぼくが何かを見たのに気づき「何か見えるんですか?」と聞いてきたので、説明すると「ああ、そうですね、お狐様でしたね!」と突然自分も見たように言い出し、お参りの際に皆さんと合流すると、それを吹聴していた。

それは狐ではなく、ただの丸い銀色のものだったのに・・・・。

だいたい宗教人とか、宗教組織の幹部、超能力者と言われる有名な人は、意外といい加減なことを言っているといういい見本だった。

マザー・テレサを例にしても彼女は組織上においては、普通の修道女だった。もともとイエスは大工か漁師だったみたいだ。はじめキリスト教は十字架ではなく、魚座の魚を旗印にしていたそうだ。ライオンでも象でもなく、神でもない、そのへんにいくらでもいる魚がシンボルだった。

いつの間にか出世好きな人や権力好き、お金好きで宗教的神秘的経験皆無の人たちが、宗教をハイジャックしてしまった。

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