2010年10月7日木曜日

キリスト教 (5)

『エジプトのアレクサンドリア、アンティトキア、カルタゴ、そしてローマそれ自体―は現在と同様、世界中から集まった人々でごった返していた。これらの都市を取り巻く貧民街の住人はしばしば、物乞いや売春、窃盗などによって生き延びようとしていた。だが二世紀のキリスト教主導者テルトゥリアヌスによれば、他の集団や団体が祭礼のための布施や謝礼を集めていたのに対して、キリスト教の「家族」は自発的に金を共有資金に寄付し、路上やゴミ捨て場に棄てられた孤児たちを援助していた、という。キリスト教徒の集団はまた、鉱山で重労働させられたり、牢獄島に追放されたり、監獄に入れられたりしている囚人たちに食料や薬を届け、親しく交わっていた。キリスト教徒の中には、本来なら城壁の外に屍体を投げ捨てられる貧しい者や罪人のために棺を買い、墓を掘ってやる者までいた。』(禁じられた福音書・ナグハマディ文書の解明 エレーヌ・ペイゲルス 松田和也訳 青土社)




キリスト教国で育ったニーチェのキリスト教嫌いは、当然こういった奇特な偉大な信者たちのことを言っているのではないだろう。

道徳や慈悲や友愛をハイジャックしたキリスト教組織が嫌いなのであり、慈悲深いキリスト教徒やイエスを嫌いなわけではない。

しかしエイレナイオスの異端反駁は、他のキリスト教徒に対し、結果的に暴力的権力を振り回し、組織力を後ろ盾にした排他的戦闘的なカトリックを構築してしまった。ミイラ取りがミイラの諺通りだ。キリストの意味はヘブライ語のmesiah をギリシャ語の christos (香油を注がれたる者)と訳したことからきている。mesiah-メシアの意味は紀元前後のユダヤでは神・救い主という大きな意味ではなく、ユダヤの律法を守るリーダーほどの意味だ。


もし、リヨンの司教エイレナイオスの排他的・独占的・暴力的なカトリックの構築がなければ、現在のキリスト教はもう少し懐の深い、味わい深い愛を提唱し続けることができただろう。なぜなら上に記したように当時のキリスト教徒は本当に偉大だったのだ。

絵はエイレナイオスである。

キリスト教 (4)


キリスト教成立史では、死後のイエスのお姿を生身の形で見たのか、霊的なお姿で見たのかが問題になる。それはキリスト教の主導権争いにもなっていた。使徒たちやマグダラのマリヤが見たお姿はカトリック宗派は生身だったとし、霊的お姿だったとするグノーシス宗派を強力に牽制し、ついにグノーシス宗派を異端として葬り去ってしまった。


ぼくはなんの資質もない凡庸な者だが、少し神秘主義的なところもあるので、こうしたキリスト教の経緯は多少なりとも興味がわく。

まず疑問!

神秘主義的体験がほとんど、あるいはまったくない人が、人が死んでから甦ることをどう考えるだろう。それは死んでしまったのではなく仮死状態だったのだろう・・・それなら納得がいく、と考えるだろう。では、十字架上で窒息しさらにわき腹をヤリでつかれた死体はどうだろう。仮死状態ではないのだから、甦るはずはないと考えるはずだ。

だが、クリスチャンは、それをありえないことだから「奇跡なのだ!」と言う。

おそらく、神秘主義的体験の無いクリスチャンは聖書や聖職者の言うことをもってそれを信じようとする態度だけで、心底から信じてはいないだろう。(ただしボーン・クリスチャンは親子代々受け継がれてきた信条として信じているだろうが。)


教会はちょっと前までは、神に関連すること、祈りなどは教会内だけでしか機能しない、神は人を通じてやってくる、などという物理的な権力者的な無理な注文を信者に押し付けながら・・・にもかかわらず口では超常的宗教的なことを語ってきた。

だが、超常的なことを見もしない、聞きもしない聖職者がなぜ神の代弁者になれるのだろう。言っていることが神や宇宙創造や、霊や三位一体など超常的なことなのに・・・・。

かれらの実生活は超常的なことよりも、教会組織やマネーや人脈、人間関係を優先させている。もとより祈っても・・・神の姿も、神の声にも接したことがないのだからしかたないが。

宗教者の、とくに組織内で出世している人の多くはあまり神秘主義的なことを好まない。宗教教典に書いてある神秘主義的なことを、平気でそれは喩えだと言う。葬式を取り扱う者なのに、ほとんど死後の世界を信じていない。(あるのに!)

霊的体験、霊視、霊聴について、そのすべてを幻視、幻影を見る異常者という感想を持つ人は聖書の記述は嘘ばっかりということになる。もちろん現代の心理学の本や心理学者や精神医からしても、霊的体験は異常なことだということになるだろう。(霊的な体験が異常か否か、嘘か本当かはかんたんに分かるのだが)

そう言えばかつて、ぼくは次のような体験をした。

ある古神道系の宗教団体の幹部らと知り合いになり・・・おかげでぼくは沖ノ島へいくことができたので、そのことに関しては感謝している・・・十数人である霊山へお参りに行った。ぼくはその幹部の人と談笑しながら、山道を登っていたのだが、目の前を山道の上の方からふーっと丸く銀色に輝く40~50センチほどのそれが降りてきた。ぼくは驚いて立ち止まってしまい、ずっとそれを眺めていた。

すると、幹部の人はぼくが何かを見たのに気づき「何か見えるんですか?」と聞いてきたので、説明すると「ああ、そうですね、お狐様でしたね!」と突然自分も見たように言い出し、お参りの際に皆さんと合流すると、それを吹聴していた。

それは狐ではなく、ただの丸い銀色のものだったのに・・・・。

だいたい宗教人とか、宗教組織の幹部、超能力者と言われる有名な人は、意外といい加減なことを言っているといういい見本だった。

マザー・テレサを例にしても彼女は組織上においては、普通の修道女だった。もともとイエスは大工か漁師だったみたいだ。はじめキリスト教は十字架ではなく、魚座の魚を旗印にしていたそうだ。ライオンでも象でもなく、神でもない、そのへんにいくらでもいる魚がシンボルだった。

いつの間にか出世好きな人や権力好き、お金好きで宗教的神秘的経験皆無の人たちが、宗教をハイジャックしてしまった。

2010年10月6日水曜日

キリスト教 (3)

現今のキリスト教で、イエスの復活について文字通り肉体がそのまま死から甦ったとされているが、なぜこのような理不尽なことがまかり通っているのだろうか。


「聖書に書いてあるから」そうなのだ、とクリスチャンは言う。

残念だが、そう言うクリスチャンは聖書をきちんと読んでいない。口から生まれたような聖職者のおしゃべりを鵜呑みにしているにすぎない。

ルカ伝の24章やヨハネ伝20章や27章を根拠にしているのだろうが、「ナグ・ハマデイ写本 エレーヌ・ペイゲルス 荒井献訳 白水社 42p」を読んでいて気がついた。

ルカ伝24章(生きている状態と同じであることを弟子たちの前で魚を食べる描写の前)やヨハネ伝同じく20章、マルコ伝16章では、イエスの身体はいわゆる生身ではなく、「他のすがた」で現れたという記述だ。実際にふっと消えたりしている。手許の聖書でここを開いているのだが、なるほどと思う。



 死海写本やナグハマディ写本を引き合いに出すまでもなく、イエスは人間イエスの側面が大きい。パウロの神よりもイエス・キリストを上位に置くかのような論理は、当時のユダヤでは考えもできないことだ。死んだ人間を神―GODと同列にはできない。

イエスは1世紀にパレスティナのユダヤの地(とりわけ、ガリラヤ周辺)で活動したが、福音書に共通することは、イエスは、ユダヤ教の宗教的指導者であるラビであり、ユダヤを救う者として民衆から待望されていた、キリスト(メシア)だということである。
三位一体もご存知のように会議で決められたことだ。神・子・霊の定義だってちっともきちんとしておらず、理解不能な論理だ。

では処女降誕―ニーチェはこの論理をもっとも不可解な女性蔑視であるとしている。まったくそのとおりだと思う。
一つ一つ、聖書と対照していくのはぼくなどの市井の凡人がやることではないが、やろうとすれば日本語に翻訳された聖書だけでもその誤謬を指摘できる。

歴史書を読まない歴史好きと同様、聖書を読まないクリスチャンが多いことは本当に不思議なことだ。

考えてみれば、キリスト教の母体ともいえるクムラン共同体は、マサダの砦でローマ軍に全滅させられたが、律法を熱心に敬い、外国人を嫌っていた。高潔なラビは現代でもアメリカで莫大な富と権力をほしいままにしているユダヤ人を、「あれは守銭奴ではあるがユダヤ人ではない。」と言っている。ユダヤ教やキリスト教を外国に布教する、ということは本来のユダヤ教やキリスト教の辞書にはないと考えるほかはない。

パウロ(サウロ)、エイレナイオス、アタナシウス、アウグスチヌス・・・・カトリックの構築に寄与した人物についての本はこの国にも山ほど出回っている。図書館に行けばかんたんに借りられる。

2010年10月2日土曜日

キリスト教について (2)

イエスが荒野で静かに瞑想をし、神を説くだけの存在だったらば十字架刑にはならなかった。専門家によれば、当時十字架刑となったのはローマに反抗する政治犯たちに限られるそうだ。

十字架形は重大な政治犯にだけ行われた処刑方法である。

聖書や死海写本やナグハナデイ文書を研究する聖書研究者によれば、イエスは明らかにゼーロタイ党と関係があったとしている。ゼーロタイ党(熱心党)はご存知のように現代で言えば武力をもって侵略者と戦う民族解放戦線である。

ではパウロが提唱したキリスト教とは?

「パウロはヤコブとも仲たがいしている。なぜならパウロは神を押しのけて初めて、イエスを礼拝することを創唱した・・・イエスはアドニス、タンムズ、アッテイス、その他の当時中東に住んでいた死んで甦る神々と一種同等な存在になるのである。・・・処女降誕や死人の中から復活するというイエスの多くの奇跡的要素は、当時パウロだけの発明であった。」

また、パウロが律法を敬わないことから、民衆に囲まれリンチ寸前のところで600人のローマ兵によって保護されたり、「パウロはカエサリアにいる間に、ローマの総督フェリクスと、打ち解けた親しげな様子で付き合う。アイゼンマンは、パウロが、総督の義兄弟のヘロデ・アグリッパとも、そしてその王の姉妹とも親しくしていたことを強調する。彼女はのちにティトスの妾になるのであるが、ティトスは、のちにエルサレムを破壊し、ついには皇帝になるローマ軍司令官であった。・・・パウロのカエサリアでの贅沢な生活」・・・・などなど、パウロは不可解な人物である。

なんともはや、驚くことにー「初代教会やクムラン共同体に託された運動は、事実上横取りされ、その創始者たちをもはやかかえ込むことができないような何物かに変容させられてしまった。そして、最初は異端的であった思想のもつれが生じ、それが続く二世紀の経過のなかで、まったく新しい宗教へと進化してしまうことになった。ユダヤ教の枠内で異端であったものが、今やキリスト教という正統になったのである。これほどの遠大な結果を生み出した歴史上の偶発事件は、他にはほとんどありえない」

と「死海文書の謎」は結んでいる。

となると、イエスについて、チェ・ゲバラの思想と行動を連想させる。イエスはチェ・ゲバラのような存在であり、パウロ一人が勝手に祭り上げたキリストとはまったく関係のない別人となる。キリスト教はパウロのプロパガンダによる虚構!まさか!

現在10億人以上の人々が、キリスト教を信じている、まさか・・・・・。

最先端の古文書学者は命の危険をも顧みず、キリスト教について分析・考究し、ニーチェと同じ結論に達している。

2010年10月1日金曜日

キリスト教について (1)

 中東においての羊皮紙やパピルスに書かれた古文書の分析はかなり進んでいるが、それらを世に出さないための大掛かりな陰謀や偽証、買収行為が広く行われている。


「死海文書の謎(The dead sea scrolls deception)マイケル・ベイジェント、リチャード・リー共著 高尾利数訳 柏書房」や「禁じられた福音書 エレーヌ・ペイゲルス著 松田和椰訳 青土社」「ユダの福音書を追え ハーバート・クロスニー ナショナルジオグラフィック社」「ナグハマディ写本 エレーヌ・ペイゲルス 荒井献 湯元和子訳」・・・などなどにはそうしたことについての信憑性のある記事を見受けられる。



 さて、キリスト教と仏教の成立の根本的な違いはその経典・教典の立場にある。






キリスト教は例えば日本では日本聖書教会が印刷している「聖書」以外のものは正典として認めないが、仏教はよく言えば懐が深い、悪く言えば味噌もくそも一緒でなんでも仏教経典として平然とする。驚くことに江戸時代のお竹大日も、昨日今日できたばかりのビジネス宗教も仏教を名乗る。まあ、キリスト教国でもわけの分からない連中が勝手な解釈によってたくさんのキリスト教宗派を作るが、教典はいわゆる「聖書」だけに絞られる。

下記のことは一体誰を現すための記述かお分かりになるだろうか?キリスト教成立にとってイエスの次にもっとも重要な人物である。
「英語のgrass には密告者、通報者という意味があるが、supergrass とは重要な密告者ほどの意味である。北アイルランドを支配しようとするイギリスは、アイルランド人の執拗な抵抗に悩まされてきた。イギリスは自らの支配を強固なものにするために、密告や通報を奨励し、そのような行為をした者たちが復讐されないように保護を強化した。そうしたなかで、重大な密告者たちが現れたが、その現象を指す」

キリスト教成立上での重大な密告者?それは誰?

イエス亡き後のヤコブ(イエスの兄弟)が率いる組織を否定し、ヤコブたちが一言も言及していないキリスト教布教活動を行い、なぜかローマ市民権を持っていた者である.
もちろん彼はイエスには一度も会う機会がなかった。



イエスの暴力行為は神殿で両替商の机をひっくり返す場面がよく語られるが、先日ルカによる福音書を読んでいて、驚くことがあった。22・47-51である。


『48 イエスは「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れて癒された。』

の部分だが、これはよく読むと・・・大祭司の手下の耳を切り落とした周りの者、イエスを主と呼ぶ周りの者がいつも剣で武装していたことを思わせる。また、イエスも「やめなさい。もうそれでよい」などと軽く冷静な対応である。イエスはこうしたことに慣れていたのだろう。

スィーカリ、クムラン、ゼーロタイ党は武装闘争によるローマからの開放を目指していた。それらの組織はローマへの共闘という関係だった。そしてイエスはクムラン共同体の一人だった可能性がある。スィーカリの意味は短剣であり、ゼーロタイは熱心党である。


現在存在しているローマキリスト教や東方教会や正教会とコプト教などヨルダンなど中東に残る原始キリスト教と呼ばれるものでさえ、当時のイエスの考え方とは遠く離れた、というよりまったく違ったものの可能性が高いことが死海写本やナグハマデイ文書や使徒言行録や福音書の読み直しによって、立証されつつある。少なくともバチカンはイエスとは関係のない組織だろう。
バチカン銀行の総裁らの資金洗浄の疑いの記事をここに載せよう。


2010年09月22日 12:52 発信地:ローマ/イタリア

【9月22日 AFP】イタリアの検察当局は21日、マネーロンダリング(資金洗浄)に関与した疑いでバチカンの財政管理組織「宗教事業協会(Istituto per le Opere di Religione、IOR、通称バチカン銀行)」幹部らに対する捜査を開始した。
 捜査対象とされているのは、エットレ・ゴティテデスキ(Ettore Gotti Tedeschi)総裁とIOR幹部の2人。さらにイタリア検察は、IORの資産2300万ユーロ(約26億円)を押収した。
マネーロンダリング撲滅を目指すイタリアは2007年、金融機関の送金情報開示義務を強化する法改正を行った。ゴティテデスキ総裁らは、この開示義務に違反した疑いがもたれている。
 これに対し、バチカン当局は、「IORは違法行為などしていない。今回の捜査には当惑し驚いている」との声明を発表。さらに、必要な書類は全てイタリア銀行(中央銀行に相当)に提出しており、IORの財政運営の透明性が証明されることは明らかだと反論した。(c)AFP

1980年代前半までは、宗教事業協会の投資運用と資金調達を行う主力行としての業務はイタリア国立労働銀行の子会社のアンブロシアーノ銀行が行っていたが、1982年に、同協会のポール・マルチンクス大司教と、「教皇の銀行家」と呼ばれていたアンブロシアーノ銀行のロベルト・カルヴィ頭取のもとで起こった、マフィアや極右秘密結社であるロッジP2がからんだ多額の使途不明金とマネーロンダリングにかかわったスキャンダルの影響を受け同行が破綻し、カルヴィ頭取などの複数の関係者が暗殺されて以降は、ロスチャイルド銀行とハンブローズ銀行などが行っている。また、この事件は、映画ゴッドファーザーPARTIIIでも取り扱われている。

宗教事業協会はその後も度々マネーロンダリングなどの違法な取引にかかわったと指摘されており、近年も2009年11月と2010年9月の2度に渡り、宗教事業協会とエットーレ・ゴティテデスキ総裁がマネーロンダリングに関係したとの報告を受けたイタリアの司法当局が捜査を行い、捜査の過程で2300万ユーロの資産が押収されている。

2010年9月22日水曜日

神代の時代

 もし、賀茂真淵、本居宣長、平田実篤の三人が現代の考古学の実績を聞き知ったならば、どうだろう。この列島の歴史を真摯に研究してきたこの偉大な国学者たちは、偉大であるが故にこぞってその成果を賞賛し、自説を修正するだろう。


御三人は神代の時代を茫漠たる過去に求めていたが、実は神代の時代とは弥生時代であり、縄文時代であると明確にできるようになった。また全世界に及ぶ比較神話学や心理学も御三人の時代にはなかった。地名に関する研究もコンピューターによって飛躍的な進歩を遂げている。面白いことに関東にはヒカワという名称が山ほどある。ヒカワはもちろん出雲である。柳田國男翁の著作によるとー例えば今は奥多摩湖に沈んでしまった小河内村の祭りと香取、鹿島神宮の祭りの様子について面白い記述がある。また現在は奥多摩駅となっているが、つい最近まで駅の名前も氷川駅であった。

古事記や日本書紀に記されている神話の神々や神道宗教団体が信奉する神々は、考古学的発掘の物的証拠や世界の神話研究によって最新の学術が解き明かしつつある。

現在の神道はご存知のように、明治政府の宗教改革によるものであり、それ以前には現在の神道という形態は存在しなかった。両部神道の名称に代表されるように、江戸時代以前のながい間、神道とは仏教と渾然一体となった形態であった。また、女帝持統天皇も聖徳太子も聖武天皇も下って南北朝時代の後醍醐天皇もみな仏教を篤く信仰していた。

確かに中世の朝廷行事の夏越の祓いや大晦の祓いは、夏至や冬至を意識した列島の神々のもとに行われたものであったが、歴代の天皇は仏教を信奉していた。古墳時代や奈良時代には数々の発掘により水を主体とした祭りが宮中等で広く行われていたことも分かっている。そして江戸時代まで、つまり京都において天皇家には御黒戸と呼ばれた仏壇があり、明らかに仏教信者であった。天皇が神道信者となったのは、明治以降でありその歴史は浅い。

 キリスト教の聖典である聖書も死海文書やナグハマディ写本の発見によって、これまでのユダヤ教やキリスト教について見直さねばならいほどとなっている。しかし、もちろんキリスト教会もバチカンもラビたちも見ない振りをしている。それと同様の問題がこの列島の神道という宗教にある。

国学者の言うところの神代の時代とは、古墳時代であり、弥生時代であり、そしてその前にあった膨大な時間の流れにある縄文時代なのである。なのに、神道関係の人々は神代の時代を空虚で茫洋としたありもしない空想で構築している。不思議なことだ。

ぼくは右翼とも左翼ともまったく関係ないが、マルクスを読まない左翼主義者や古事記を読まない右翼は、左翼でも右翼でもないと思う。彼らは共産主義や天皇制を利用するだけの暴力主義者にすぎない。マルクス・エンゲルスや天皇がかわいそうでならない。(レーニンはもちろんちっともかわいそうではないが)

柳田國男翁は「神樹編」の中で

「思うにこの問題は、伊勢宗廟の一神秘たる心御柱の由来が、遠慮なく論究せられ得る時代が来たら、これに伴のうてずっと明瞭になることであろう。」

と言っておられる。

2010年9月20日月曜日

時空を超えた「場」は「あの世」のこと?「イエス・ノー・リーラー」から

拙著「イエス・ノー・リーラー」の原稿を再チェックしているのですが、第三章の一部をここにおきます。ご興味ございましたら・・・本ができたらよろしくお願いします。絵はコンテンポラリー・ダンスでLila dance です。

 「さて時空を超えたシェルドレイク氏の形態形成場の概念は少しも新しいものではない。新しいどころか、古代から連綿と伝えられている!

それが最先端科学者の研究と一致するというのも妙な感じだが、「時空を超えたフィールド」というならば、宗教用語の「向こう」「彼岸」「あの世」「霊界」「天国」「地獄」というニュアンスと同じではないか!

我々は向こうのフィールドから遺伝情報をダウンロードしながら誕生するということになると、我々は死に際でなくても、始めからあの世(向こうのフィールド)に片足突っ込んでいることになる。さらに形態形成が完成して、この世に生まれ落ちてからも、記憶や遺伝など物理科学的に解明できないたくさんの事柄に関して、向こうのフィールドと常時情報を交換していると考えざるを得ない。そして肉体が滅びるとこちらのフィールドでは生命現象の終焉となる。しかし・・・・。

ホームページを作ったことがある人なら、ここでアッと気がつくだろう。ホームページはパソコンで作ったファイルをサーバーに送って公開するもので、パソコンが完全に壊れてしまってもサーバーにはそのホームページがそのまま残っている。あれっ、人間にとって、もしそういうフィールドがあるなら、肉体が滅びても向こうのフィールドにそっくりそのまま情報が残っていることになる。すると人間は死んでも向こうのフィールドに残る・・・。というより、こちらのフィールドはあちらのフィールドに依存しているのだろうから、あちらの方が主体でこちらこそが仮の姿であるとも言える。サーバーから個々のパソコンにダウンロードされたものがわれわれ個々人であると考えてもいいだろう。」

2010年9月19日日曜日

歴史観

学校で教えられたことやマスコミが面白おかしく取材しただけのおざなりの歴史観は、危惧さえ抱かねばならないほどだ。


例えば中央アメリカのマヤ、アステカ、例えば火山によって埋もれてしまったポンペイ、例えばローマ、例えば中国の三国志といった古代文明について通俗的に聞き知っていることからは、その文明をきちんと把握できないばかりでなく、誤った解釈や感想を抱いてしまう恐れがある。

知らなかった、教えてもらえなかったといういい加減な受身の態度の人は別として、歴史を垣間見るには積極的な読書が必要だ。

マヤ文明はいけにえ儀式のことばかりが強調されているが、密林の中に70ほどの小国が互恵的な連邦のような状態を保っていたために、2000年間も続いた。戦争は王と貴族が直接戦い、庶民は戦争に狩り出されるようなことはなかった。

近現代の諸国家のように、権力者とその家族、取り巻きは口だけで戦争を行い、直接傷つき死に、ごみのように捨てられるのは庶民であるというようなことはなかった。大統領と王様、首相、そしてその取り巻きは決して戦場には出ない。戦争遂行者だというのに・・・。マヤ文明に学ぶべきだ!

アステカは、1519年スペインが現地の反アステカ勢力と同盟を結んで滅ばされた。

そういえば、わが国でもそんなことがあった。
伊治公砦麻呂(コレハリノキミアザマロ)は宝亀九年AD778年の人物である。ヤマト朝廷はこの頃までも、北東北にて蝦夷の勢力を完全に削ぐには至っていなかった。政治力と軍事力を巧みに使い、蝦夷同士をうまく戦わせその間隙をついて支配下に収めていた時期だ。また蝦夷の側は鉄製品を、ヤマトの側は北方の昆布や動物の毛皮等を求めていたことから、お互い貿易の相手としての関係もあった。しかし、ヤマト側の策略もあるだろうが、蝦夷の族長たちはまとまってヤマト側と交渉することができなかった。

蝦夷はまとまりがなく、それぞれの部族ごとが独立していた。

これはちょうどアフガニスタンにおいて、アメリカが北部同盟を味方に付け、タリバン勢力を攻めた構図にそっくりである。 アフガニスタンのムジャヒディンがソ連軍をなぜ撤退に追い込むことができたのか。そして、今度はなぜタリバンがあっけなくアメリカにやられてしまったのか。答えは簡単である。当時のムジャヒディンにはアメリカが後ろ盾となっており、CIAの軍事顧問派遣、そしてスティンガー・ミサイルなど近代兵器を含む大量の武器を供与されていたからである。タリバンには後ろ盾となる大国がついていなかったからである。

テレビや新聞・雑誌だけでこうした軍事的、経済的な面だけを見ていた我々は、アフガニスタンがタリバンの敗北で沈静化されるまで、難民たちの悲惨さには目が行かなかった。

 8世紀のこの列島の政治情勢では、伊治公砦麻呂の姓(カバネ)と外従五位下という位がヤマト朝廷から与えられた。では、なぜこのような国司クラスのものを与えられたかというと、実は対蝦夷戦での功績がもとになっている。

蝦夷のアザマロが蝦夷を相手にして戦った功績?・・・なんだ、これ、仲間を・・・その通り、この構図は大陸で大国中国を相手になんとかお墨付きをもらおうと、やっきになって仲間同士戦う周辺諸国と同じだ。もし、紀元前の匈奴や月氏の騎馬民族が、一致団結していたら、中国が元になるずっと前から騎馬民族は中国に入っていただろう。歴史は繰り返すどころか、そのパターンはいつも同じだ。

 さて、ポンペイやローマについてだが、強大な国家を維持するために住民に課した重税については、キリスト教の聖書を読めば十分理解できるが、その他奴隷売買、売春についての税収も相当大きかった。図版を見れば分かるが、女性の妖艶な姿が描かれた壁画が多いが、それは恋愛の絵ではなく、売春宿の風景である。売春は奴隷売買と密接な結びつきを持っている。その国のその時代の専門の歴史家ではなくとも、歴史のアマチュアにも税収として売春から得る額が多かっただろうことが理解できる。

三国志の時代、中国の人口は三分の一に減った。単純計算だが、全人口に対して三人、四人家族は一人しか生き残れなかったことになる。これが自分の家族だったらと考えるべきである。すると三国志の時代がどんなものか理解できるだろう。なのに、英雄だけに目を奪われた貧弱な歴史観を持つ人は多い。


2010年9月17日金曜日

ビッグ・バン10分後

ビッグ・バン10分後にこの宇宙は数千光年の大きさになったと天文学の本に書いてある。当時、宇宙の大きさが光の速さで数千年の距離を持っていたということだが、時間は10分しかたっていない。ビッグ・バンから10分後の宇宙の大きさは、光速で10分の距離ではないのか?10分しかたってないのに、なぜ?
宇宙の膨張速度は光の速度をはるかに超えている。
仮に当時の宇宙の大きさが1000光年だとすると、300000キロメートル(1秒間の光の速度)×601分)×601時間)×241日)×3651年)×1000 という途方もない距離が10分で達成されたそうである。
ぼくの単純な計算だと、宇宙膨張の速度は光の4億倍である。速度100キロの車が4億倍のスピードになると、ええと一時間に400億キロ進めることになる。400億キロ÷60で一分間の距離だから、それをさらに60で割ると一秒間の速度になる・・・れれれれ、秒速一千万キロになる、ええと光の速さが30万キロだから・・・つまり4億倍とはそれくらいだ。
宇宙膨張の速さが光の速さを超えたとしても、物理学ではそれは矛盾ではないそうである。
なーんだ、光の速さ(30万キロ/秒)なんて宇宙膨張の速さ(30万キロ/ 秒×4億)に比べれば亀より遅いのか。
じゃあ、光より早いもの・ことはいくらでもありそうだ。
なんかよく分からない。

2010年9月4日土曜日

ベーメは興味深い


 ぼくがベーメに興味を持ったのは、ルドルフ・シュタイナーなどからドイツ神秘主義思想について調べた結果ではなく、図書館で偶然「ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元」 南原 実/著 哲学書房」を手にしたからである。
はじめの感想は「これは凄い思想家だ!」だった。

 ドイツ哲学といえば、それまでは近代のフィフテやカントやヘーゲル、ニーチェなどをつまんでいただけだった。それらはキリスト教の土壌から生まれた哲学だから、東洋思想から比べるとあまり面白いという感想はもてなかった。当たり前だが、なにしろぼくはクリスチャンではないし、母国語は日本語だ。違和感のある考え方に思えた。ただ、シェリングについては少し引っかかった。


だが、南原先生の「ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元」を読んで驚いた。シュタイナーもヘーゲルもシェリングもベーメの焼き直し、あるいはそのエッセンスを頂いちゃっているなあ、と感じた。その後、ベーメの難解な本を数冊読んでみたのだが、いやいや何が書いてあるのか・・・・同じ箇所を何回も何回も読まないと分からない。はじめこれは翻訳のためにそうなのかなと思ったが、そうでもない。たとえば「宇宙の渋さ」という表現など、とにかく用語が錬金術的であることが戸惑う原因となっているのである。それで、早速図書館でヘルメス哲学やエックハルト、パラケルスス、アウグステイヌス・・・などを借りて勉強してみる。すると一般に言われているように、ベーメは無学であり、その著作は直感によるものがほとんどであるとする説が違うことに気付いた。ベーメはとてつもなく博識である。

 ところが、ぼくの入門書となった南原先生の「ひらけゆく・・・」ではなく、別の著作「極性と超越」新思索社では、先生はベーメを無学な靴職人と捉えている。この本はベーメの思想がロシアなどへ幅広く伝わっていたことなどを教えてくれているのだが、どういうわけか専門家のこの先生がベーメの博識さについては否定的だった。
例えば、アウローラをぱっと開いてみる・・・82ページが偶然開いたので、そこを書き写してみる。

30 そこでサルニテルとメルクリウスは父を意味し、金は子を意味し、力は精霊を意味する。三重性のうちに三性があるのも、そのような仕方である。ただしここではすべては動き、発出する。

ここでベーメが言っている三重性は、単なる三位一体や真善美みたいな概念ではないことが分かるだろう。ベーメの発言はおそらく調べてみれば、そうとう深い裏づけがあると思う。ぼくのような凡人には理解できかねるが、直感と知性のバランスがすばらしい!
神、神と1ページに何度も神という文字を書き連ねる凡庸な神秘主義者や神学者ではない。
神、信仰と書けば神学になるわけでもないだろう。
まったくベーメは面白い。

2010年9月3日金曜日

「イエス・ノー・リーラー」第一巻


 「イエス・ノー・リーラー」の一章から三章まで、推敲が終わりました。
あとは表紙と、必要であれば前書きや後書きを作るだけです。
もう少し涼しくなったら、自費出版の印刷会社へ原稿を持って相談に行こうと考えています。
これが完成したら、これを第一巻として第二巻を書き始めます。そして、第三巻、第四巻・・・とやってみようかなと、凡人のぼくですが自分の思想をまとめてみようと、壮大な計画を立ててみました。合間に小説や楽曲の整理をし、この生を生きた証しにしようかなと。
これまで好奇心のままに全力で駆け抜けて来た感があるので・・・ために睡眠時間も少なかったし、あらゆることに首を突っ込んで来ました。そろそろまとめようと・・・。
でもリーラー的にやるのであって、悲壮感漂う感じではありません。

病院や家でぷらぷらするというこの機会は恩寵とも言えるものです。病気がやばければそれはそれで仕方がないので、まあできるところまでやってみようかなと。
とりあえず10月が終わる頃までには、第一巻を作ってみたいものです。

図は「十牛図」の第三番目の見牛です。

2010年8月31日火曜日

ぼくの病気のこと


皮膚がんは順調に回復していたのですが、転移を調べるための検査でなんと脊髄腫瘍があると先日告知されていました。この病気は悪性だとかなりやばくて車イス生活を余儀なくされ、回復を見込めないものです。ネットで調べて慄然としました。いや愕然としました。


ぼくはこれまで幸いなことにいろいろなことを経験することができたのですが、身体が丈夫だったため、病気についてはあまり考えたことがありませんでした。しかし今回病気について多く学ばされることになりました。
 先にご報告いたしたいと思いますが、脊髄については神経鞘腫ということで、この病気をABCの3ランクに分ければCということで最悪ではないことが今日分かりました。
まあ、良性とはいえ腫瘍ですからいずれ切除しなければならないのですが、緊急ではありません。まずは一安心です。これからいろいろ詳しい検査をするのですが、現在は背中の軽い痛みくらいしか症状はありません。症状が出てからでも切除は遅くないそうです。症状がないのに切除して神経系統に麻痺等が残るというリスクがある手術をはしないほうがいいという見解によるものです。

髄膜の内側で、脊髄の外側に局在する腫瘍で、脊髄腫瘍の中では最も頻度が多い、神経根から発生する神経鞘腫(しんけいしょうしゅ)ですから、写真等で見ても医師の説明は納得がいくものです。

 さて、現在は読書のほかに「リーラーの宇宙」を自費出版のするための推敲を今回の自宅での療養生活のメインにしています。題名を変えて「イエス・ノー・リーラー」にしようかなとも考えています。外来の日以外は自宅にいてヒマしているので、リーラーやブログについてお便りでもいただければ、と思います。アドレスは lila@jcom.home.ne.jp です。

2010年8月21日土曜日

文化文政期 会津郡長江庄 檜枝岐村 耕古録


(あいずのこおり ながえのしょう ひのえまたむら こうころく)

療養生活の一つとして、資料の整理をしているのですが・・・。

ぼくはどこかへ出掛けると、なるべく近辺の博物館や資料館や役場へ行って資料やパンフレットを求めるようにしてきました。例えば有名な所では、高尾山の「高尾山小史・高尾山の草創」には、

「天平年間と申せば、当時、荒地の武蔵野の大平原に、武蔵国府、武蔵国分寺、等々の建設が進み、いわば武蔵の国は国造りの最中であった。そのころ、万葉人により多摩の横山と詠われた山並みの、その主峰的な存在でもある高尾山上に大願成就を祈念しつつ薬王院有喜寺は建立されたものと思われる。その後、永和年間・・・・」

などと草創の歴史が紐解かれ、興味深いものです。

長野県茅野市にある「神長館のしおり」の第一部には、「76代守矢実久に至るまで、神長守矢は、一子相伝の口伝により、歴史を伝えてきたと言われます。77代の祖父真幸も一部、口伝によりご祈祷などを伝授されています。(中略)諏訪盆地には、古事記に書かれた出雲の国の国譲り神話とは別にもう一つの国譲神話がいい伝えられています。(中略)しかし、先住民である洩矢の人々はけっして新しく来た出雲系の人々にしいたげられたりしたわけではありません。」

諏訪ミシャグチの神の話など、学校では決して教えない歴史がそこにはあります。


さて、ブログの表題とした「会津郡長江庄 檜枝岐村 耕古録」は、昭和58年頃ぼくのこどもたちがまだ小さい頃、そこへ家族でスキーに行った時に買い求めた資料です。当時はまだ雪深い田舎道を延々と走らねばならず、現在のように名の知れたスキー場ではなく、小さなゲレンデがあるだけの鄙びた(ひなびた)村でした。
そこで買い求めた「耕古録」のほんの一部をご紹介したいと思います。この冊子の奥書は昭和50年とあります。

この巻末には公民館に所蔵されている資料の目録もあり、資料的価値のある冊子です。これまでの山村の厳しい生活をうかがい知ることのできる資料であり、現代の生活を考える上で必読とも言える冊子でしょう。
こうした冊子は、中央地方を問わず気に留めさえすれば以外と簡単に廉価で手に入るので、旅行の際には購入をおすすめしたいものです。

さて、この冊子には「万書留帳」から抜き書きしたものがあります。

「文化元甲子年より、約60年間の主として生活に関係あるものを当時の名主の書き残した、万書留帳より摘記し見よう。」とあります。

文化文政年間というと、歴史好きな人でさえ、江戸市中の浮かれぶりばかりを話題とするのが常ですが、それは日本史のほんの一部のことでしかありません。
当時のこの列島の人々は、文化文政年間にどんな生活をしていたのだろうかと考えてみることは、歴史を見る際の必須な作業です。「万書留帳」はそうした一つの資料と言えます。

文化 八年  十二月二十五日夜出火、三十六軒向側不残焼失失火元市朗次此為金十六両御貸渡、    無利子四カ年賦返納のこと
同 十一年 九月代官長崎左右ェ門様御泊り六人、四月三日竹村半左右衛門様お泊り、小羽板壱分に付大束四束値段お買上 (小羽板とは屋根の下葺きの薄い板)
同 十三年 去る卯年不作疫病にて死失したる者が多く、そのままになりいたので三十三回忌をなす。
文政 五年 七月十八日大洪水にて橋橋流落・・・
天保 十一年 凶作中・・・
同  十二年 米代両に二石二斗九升八合八勺・・・二十五年賦子孫まで公借・・・・
同  十三年 当年諸作豊作(寒冷地のため米以外の雑穀のこと)
万延 六年  正月ほうき星  八月十三日またまた大洪水 当年疱瘡はやる
慶応 二年  当年諸品追々高値になる、八月七日より八日台風、作物吹倒れ、田畑不熟となる

さらに「狩り場山の記」「方言使用例」「住居」などなど、江戸市中の文化文政期の浮れ とは違う歴史を垣間見ることができます。

不十分ではありますが、リーラーの宇宙の歴史観はそうした側面に重きを置いたつもりです。

2010年8月17日火曜日

「・・からの般若心経講話」という本の感想


 高名な仏教研究家の書いた厚い本なのだが、残念なことに的はずれ、勘違い、思いこみによるお説教集だった。
所々サンスクリット語と対照しているが、これがどういう訳か意図的なのかそれとも思い込みか理解できないが、どうも違う。このブログに、半年前「般若心経の音楽的解釈の試み」の作曲の際の考察とも合致しないのも不思議に思う。つまり、中村元先生や涌井先生、マックミューラー先生、コンズ先生の考察と大きく解釈が異なるのである。

そこの所のブログは全てのブログで検索しないと、ここには出てこないのでリンクを以下に置きます。「短絡的な縄文時代賛美」の三つ以下に続けて置いてあります。
http://ebeyukan.blogspot.com/search?updated-max=2009-10-11T20%3A29%3A00%2B09%3A00&max-results=20

この本は、全文に渡って道元やその他有名な書は全て正しいと思いこみ、的はずれな説教を延々と続けます。例えば・・・・長くなりますが引用します。

『本当にみなさん、心から障りをなくし心を清くしていこうではありませんか。
キリスト教には神という概念があります。このキリスト教の神に相当するものが仏教にあるとすれば、それは清浄という言葉で表されるのでは無いかと思うようになりました。しかしこの清らかになろう、ということは、仏教だけの特権ではなく、イスラム教であろうとキリスト教であろうと、あらゆる宗教の共通した主張であります。

わたしたちは、もしも心底から清らかであったら、善か悪かと分別する障りがなくなり、善悪にこだわらないおおらかな心でいられるのかもしれません。般若心経の空は、このようなおおらかな心を説いているといえるのではないでしょうか。

すなわち空を実践する、ことを、これから般若心経に学んでいきたいと思います。』

唯識三十頌や大智度論や、涅槃教などの漢訳仏典から次々と引用しながら、際限もなく勘違いと思いこみを仏教に託する説教調です。きっとこの方は自分が相当偉いと思っておられるでしょう。


引用した部分の後に、知識を披瀝するだけで論拠をきちんと説明しませんし、ましてや「清らか」とは何かについても説明しません。ために本当か嘘かわかりませんが、

「しかしこの清らかになろう、ということは、仏教だけの特権ではなく、イスラム教であろうとキリスト教であろうと、あらゆる宗教の共通した主張であります。」

などと「清らか」を説明しないまま、「あらゆる宗教の共通した主張であります。」などと決めつけて平然とします。もし、あらゆる宗教の共通した主張であるならば、ここに「清らか」について考察すべきだと思います。

(龍樹は六十頌如理論で清らかについて触れていますが、この先生のような説教調の清らかさではありません。大乗仏典 第14巻 龍樹論集 中央公論社 に「六十頌如理論」が収録されています。お読みになっていただければ、幸いです。)

この本はこうして曖昧なまま唐突に終わってしまいます。
この高名な学者は、この本で自分の知識をひけらかすだけに終始します。そして、読み終わった人は、「ああ、高名な学者様が言うことだから凄いのだ!」という印象だけで、仏教について何も理解が進まないということになるでしょう。

世の中には、こうした本がなんと多いことでしょう。
お寺の本堂でロック演奏をしたり、ラップのリズムにのせて経典を読んだりする、「仏教の大衆化」を目指す連中と大差ありません。(ロックやラップが悪いと言っているのではありません。勘違いしないで下さい。仏教の大衆化を安易にやろうとすることが仏教的ではない、と言っているのです。仏陀や龍樹や一遍や親鸞は、そうではなかったと言いたいのです。)
この先生は、おそらく宗教的な霊的な存在など認めない人だと思います。唯物論者でしょう。神秘主義なんて、歯牙にもかけないでしょう。
ほとんどの宗教が清らかさよりも、あの世について多く語っていますが、もちろん死の世界も認めないでしょう。死が近づくと深刻な恐怖を味わうでしょう。
知識はお金と同じで、多いほどいいのですが、残念なことにあの世では知識もお金も役に立ちません。

2010年8月12日木曜日

「リーラーの宇宙」自費出版しよう!



しばらく自宅での療養生活を余儀なくされた。しかしだらだらと体力の回復を待つだけというのは、精神衛生上よくないし、ぼくの性に合わない。


そこで、考えた。この時間を使って「リーラーの宇宙」を自費出版してみよう!そう考えた。
目的が持てたら、やる気が出てきた。

ヤコブ・ベーメ先生も生涯に出版した作品は一冊、あとは全部亡くなってからということらしい。
印象派の画家の多くはアマチュアだったし、ぼくも一冊まとめておこう。




だが、しかし結構ページ数が多くなってしまうことから一部省略しようかとか、文体や表現方法を改めようとか、いろいろ考えているだが、なかなか考えがまとまらないが・・・。

年齢的にもそろそろ自分の思想を形にしておくのもよいのではないかと、とりあえず、推敲からはじめている。
また、これまでの作品もまとめておこうかなと思案の対象となった。


よし、やるぞ!毎日家にいて鬱々としてしているのはバカらしい。写真はぼくのやる気です。(笑)
Zaroff の石井さんお気に入りのぼく写真です。手に持っているのは、拾った縄文時代の石斧を木にはめ込んで作ったものです。

2010年8月11日水曜日

続 ソフィアとの戯れ 


入院前にこのタイトルで書きましたが、やはりベッドに寝ているだけというのはいろいろ考えるものです。数冊の本と音楽とヘッドホンを持って行きましたが、これまで考えていたことや読んだ本を反芻したりしました。収穫はやはりベーメでした。これまで書いてあることをいくら考えても理解が進まないことも、考え続けることによって大分分かるようになりました。
ベーメはドイツ語で著作を著していますが、おそらくドイツ語でも日本語に翻訳された文章でも同じように難解だと思いますが、翻訳の際にその難解さが増すというような文章ではないようです。

ぼくはドイツ語が分かりませんが、コツさえつかめばベーメの言うことがよく分かるような気がします。もちろんギリシャ哲学やヘルメス哲学、また錬金術について多少の知識が必要ではありますが、率直な語り方には共感を持てます。



さて、ソフィアとの戯れは思ったほど進みませんでした。彼女はやっかいでした。
以下に入院時のメモの一部を置きます。



般若心経 一切智に帰命す
美しく流れるような旋律は 洗練され、完成している。
次々と流れ去る雲のように、跡形もなく、空虚な無には一切ふれず、
無を残すことなく、流れ去る空性を説く。
空観、縁起の法にのせて存在をうつろいの影となし、さらにその影さえ、木っ端微塵!



熱望は自己自身を捉え、自己を圧縮する。すなわち熱望は自己を凝固させ、自己の中で自己自身を牽引する。そして自己を捉え、自己を無底から根底へ導き、無が満ちたものとなるように、磁気的な牽引によって自己自身を影で覆う。
しかもそれは無に留まる。それはただ闇という一つの特性にすぎない。



湿った暑く重い空気はそよとも動かず、やりきれぬ大気の圧力が心と魂を押さえつける。
熱く溶けた金属が首筋から胸を伝わり、心の硬い部分をも融解する。
皮膚を破り、肉を焼き、心臓にいたる。
心を覆う心臓が融解すると、熱い砂に置かれた魚のように、心はむきだしとなる。
心の融解がはじまる。
心の柔らかい部分は、煙を伴ってシュッと消失し、残った硬い部分でさえ、赤熱し、
やがて崩壊がはじまる。

2010年8月8日日曜日

退院しました


手術で半月余り入院していました。
手術が終わって手術室から病室まで、車椅子を拒否して歩いたのですが、思い知らされました。体力が十分の一以下に落ちています。見栄をはってしまったため、やはり車椅子をなどとは言えません。いやあ、病室まで遠いこと遠いこと、点滴をぶら下げる車を押しながら歩きました。
手術の翌日どうしてもタバコが吸いたくなりました。ナースセンターはとぼけて通過できたのはまあいいとして、病院の敷地内全てが禁煙のため、病院の脇の道まで歩くことになりました。ところが、なんと歩道の縁石に足を持ち上げることさえできません。ずるずると歩くだけです。
身体にメスを入れると、ずいぶんと体力が落ちるとは聞いていましたが、予想以上でした。
今も皮膚をえぐった場所はぽかんと穴が開いたような状態なのですが、それにしてもなぜこんなに体力が落ちるのでしょう。不思議です。

さて、神秘的な話を二つほど・・・・。
入院前にある親しい人(よく幽霊を見る人です)に電話を入れたのですが、お出にならなかったため、再度電話をすることなく入院してしまいました。
・ ・・で、退院して電話をしたところ。
「ああ、入院は聞いていたけど、江部さんはぜんぜん大丈夫だと分かったよ」
と言います。当然その訳を聞きました。
「いやあ、初めてだよ、生きている人の幽霊を見たのは」
と言うではありませんか。
「入院しているはずの江部さんが家の前にいたんで、不思議だなあと思いつつ声をかけたら、軽く笑って会釈して行っちゃったんだな。ああ、これが生き霊かあ、と思って、なんだ笑っていたから大丈夫なんだな、と思ったよ。」
もちろん、ぼくは彼の家に行ったことはありません。ただ、彼に知らせずに入院してしまったことが、なんとなく気がかりだっただけです。入院中も電話をかけたのですが、やはり電話にお出になりませんでした。

次の話をここに書こうと思ったのですがやめます。
だから、二つの話のうち一つだけにしました。

このサイトを訪れてくれる皆様には大変ご心配をおかけしましたが、どうやら転移ということもなく切除だけでこの病気は完治しそうです。ありがとうございました。
写真は縄文時代の知られていない貝塚の跡で、しかも古墳時代の製鉄の材料である高師小僧の採れる場所です。この時は小原と一緒でした。なんとなく影が生き霊的だったので、ここに置きました。

2010年7月20日火曜日

ソフィアとの戯れ


ぼくは7/22入院・7/23手術の予定になっているので、二週間あまりこのブログはお休みです。ま、たいしたことがなければ、退院後は自宅療養ということになるので、ブログを再開します。

手術を待っているこの期間や、入院・療養は神様から頂いた休暇だと思っています。(神様の定義は棚上げとします)ぼくにもまだやりたい事が、山ほどあるのですが、凡人にとって500年、1000年生きてもできることはたいした事がないでしょうし、たとえ莫大な富や名声、強大な権力を手に入れたとしても、歴代の権力者と同様、悪を重ねるだけに終わります。また、宗教的な分野で出世したとしても、宗教的なことを理解なんかできずに、ぺらぺらと嘘八百が関の山でしょう。


古来より哲学をソフィアという女神として捉える考え方があります。
ソフィアは乙女ですが、乙女の意味はここでご紹介したように、どんなに戯れても孕まない故に乙女なのです。
しかし、この乙女と戯れると乙女は妊娠せず、こちらが妊娠してしまうのです・・・・何を・・・まずはじめに自我を内部に孕むのを皮切りに、自分の存在意義や存在の意味など、その後乙女と戯れる毎に苦しいほどに孕んでしまいます。

例えば死生観という用語は一見たいそうなお話に見えるのですが、そうしたプロセスを経ることのない軽薄なおしゃべりにすぎません。
ソフィアと戯れること、これは勇気と忍耐を強制されます。

今回の入院は、ソフィアと戯れてみるいい機会の一つだと考えています。


絵の解説文  http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20090220/p1 から

この骸骨と少女が見詰め合っているという一際目を惹く絵画は、ベルギー画家アントワーヌ・ヴィールツ(Antoine Wiertz、1806 - 1865)の『美しきロジーヌ』(La Belle Rosine、Beauty and Death)という作品だ。
「死と乙女」というモチーフを捉えた作品で、そして別名が『二人の少女』(Deux jeunes filles、Two Young Girls)になっていることに、ヴィールツの思想が込められているのだろう。ルーベンスミケランジェロに影響を受けたアントワーヌ・ウィールツであるが、彼の思索的な関心は「死」であった。『美しきロジーヌ』もそういった「死」をテーマにした作品で、死を想え/死を忘れるな/メメント・モリ(Be mindful of death、Remember that you must die、Memento mori)という「思索の中に捉えられた」モチーフが鮮烈なまでに表出されている

2010年7月18日日曜日

大乗仏教批判


ヤーコブ・ベーメの「無底と根底」(四日谷敬子訳・哲学書房)のベーメの著者の読者への序文の冒頭は次のような書き出しだ。

「わたしはこの著作を分別のない獣たちのために書いたのではない。すなわち外貌は人間の姿をしているが、その像つまり霊においては性悪な獰猛な獣で、それが彼らのいろいろな特性に現れ見えているような分別のない獣たちのために書いたのではない。そうではなく人間の像(霊的な人間)のために書いたのである。」

冷酷とも受け取れる明解な主張だ。
この書を読むぼくが霊的な分別のある人間である保証はない。もしぼくが分別の無い獣であるならば、この書を読む資格がない。

ここに「もし」と書いたが、それは「もし」ではなく、ぼくが分別のない獣であり、肥った黒豚であるかもしれないということを考えると・・・ベーメは「もし」と書くわたしを傲慢な、思いこんでいる、思い上がっていると指摘するだろう。
恐ろしいまでの序文だ。

それに比べると大乗仏教の八方美人的な軽さが思い知らされる。
大乗仏教は四十八願に代表されるように、全ての人間を救済しようとする。

ただし、ここに、歎異抄における「悪人なおもて往生す」の悪人の意味は中世的な表現であり現代の悪とは大分意味が違い、悪人はベーメの言う分別のない獣のことではないことは、書き添えなければならないだろう。歎異抄で親鸞は次のように述懐している。また、「この教えは考えてみれば、親鸞ただ一人のものであった」と。 親鸞を鎌倉時代の仏教の単なる大衆的改革者ととらえること、そのものが間違っていると感じている。もし、このことについて論争を希望する方がおられたら、受けてたちますが、鳥追い唯円の書いたこの歎異抄を一言一句きちんとお読みになられてからお願いいたします。
なお宗学のご専門家から、正確な論考をもって、ぼくの解釈が誤っているとのご指摘などあれば幸甚に存じます。

 
 ベーメは分別のない獣は神の救済の対象ではないことを、はっきりと断言している。信仰を持っていようが、資産を持っていようが、人に好かれていようが、その行いが分別のない獣であるならば、救済の対象ではないと言っている。

はっきり言おう。兵器産業、投機的金融資本、人を欺くことで生計を立てている輩(職業名を書き出すときりがないほど多い)は、救済の対象ではない。

例えば兵器産業とは人の殺傷を目的とする道具を作る産業である。作られた兵器が、いつ、あなたやあなたの家族や恋人を攻撃するか分からない。実際に、人類という種に戦争は日常的なものであり、今現在も、家族を殺されたり、家を破壊されたりいる人々がたくさんいる。
兵器を作る産業は殺傷を目的とした道具を作ることによって、自らを肥満させている分別のない獣である。

 つまり、わたしたちも兵器とは関係ない事をしていると確信していても、回り回っていつの間にか兵器産業と同様の行動を取っているかもしれない、と考えることは必要だろう。

そう考えると、衆生の全てを救済目的とするという大乗仏教の一般的な思想は、八方美人的で甘すぎるし、実現不可能な絵空事に見える。人類や道徳や人間の存在価値などを考慮に入れないほとんど嘘っぽいアドバルーンだ。

「この江部遊観のような浅学で思慮深くないちっぽけな人間が、広大無辺の思想潮流である大乗仏教を非難するのは、どんなものですかねえ?」
と揶揄されても、ちっとも平気である。

恐ろしい獣のような人間を含む一切衆生を救済目的とすることは、大体矛盾しているし、そんなことできるわけもない。これまで数千年間どうだったか、考えてみれば一目瞭然だ。


ベーメの「無底と根底」の序文から、なんとなく大乗仏教批判をやってしまったが、それほど大それたことだとは考えない。それより、本当のことなど気にもかけず、血だらけの手で平和を語る連中よりは少しはマシだろう。


絵は通販で売られている仏像です。


2010年7月14日水曜日

道徳が宗教にハイジャックされた


ニーチェのキリスト教嫌いは「アンチ・キリスト」で先にご紹介しましが、ラバQというサイトに「偉人たちの無神論的格言」として、そうした発言だけを取り上げていたのでご紹介します。こうした気の利いたセリフは宗教組織の姿・形を如実に表すようで面白いものですねえ。
絵は講談社新書です。840円です。

信仰を持つものが無神論者より幸せだという事実は、酔っぱらいがしらふの人間より幸せなことに似ている:ジョージ・バーナード・ショー

信仰とは真実をしりたくないという意味である:ニーチェ

キリストは好きだが、キリスト教信者は好きではない。キリスト教信者はキリストのようではない:マハトマ・ガンジー

人類の一番の悲劇は、道徳が宗教にハイジャックされたことだ:アーサー・C・クラーク

2010年7月11日日曜日

続・ヨセフ・ピーパー「余暇と祝祭」




未知との遭遇で死を、死を平凡なことと書きましたが・・・われわれは普段生活していて、それを他人事として、自分にはあまり関係ないかのように振る舞ったり、毛虫やヘビを見るような目つきで遠ざけ、なんとかそれに関わらないようにしようとします。

でも残念ですが、死はわれわれにとって実に平凡なありきたりの現象です。
この現象は誰にでもやって来る平凡なものであるという認識をすべきでしょう。

何も死のことではなくても、こうした勘違いは先に書いたように宗教者の思いこみや勘違いと同様、われわれの人生全般に及んでいます。
われわれは一般に大事な事と些末で良い事とを、勘違いして逆に考えることが多いのです。


そのへんのことを先に書いたヨゼフ・ピーパーは・・・・。

「形而上学的、神学的立場からいえば「怠情」とは人間が自分の本来の存在と究極的に一致しないことを意味する」

と言っています。
どういうことかと言うと、真実から目を遠ざけ物質的なことにふけってしまい、人類や自分の存在意義など気にもかけないことが、怠け者であると言っているのです。

実際、人間の胃袋も口も一つしかありません。この物質的世界に存在している期間は長くて80~90年です。
そうしたはかない存在が、物質や貨幣を独り占めしたり、威張ったり、他者や環境に暴力を振るうような行動ばかりするのは、快不快だけに囚われた知性的ではない証拠なんだよ、と指摘しているのです。人間としてもっとやることがあるのでは?・・・ピーパーはそう言っています。ためにカントのヘラクレス的労働について云々しているのです。

現代のわれわれは新聞、テレビ、雑誌が報道することに何の疑いも持たずに烏合の衆として行動する。なんと悲しいホモ・サピエンスなのだろう。サピエンスは知性という意味なのに。
エコと言われるとどんどん新製品を購入し、結果的に二酸化炭素を増やしている。製品の製造過程におけることなど考えもしない。なぜこんな簡単なことを考えられないのだろう?テレビや新聞を鵜呑み?・・・まさか、大人なら少し考えてみれば分かると思うのだが・・・・。

 もしかすると大企業の重役といえども「足し算と引き算とかけ算とわり算だけ」で、会社経営しているのかもしれない。ほんと小学生レベルだ。いやそれ以下かな、多い少ないしか把握していないのかもしれない。経営コンサルタントから気の利いた提案を受けても言いなりになったり、理解できずに誤った判断をしたりするのだろう。
だって加減乗除でしか、数字を見ることができないから。

宗教界については、ここでもう何度もやっているし、どうせ暖簾に腕押しだろう。

物事を皮相的にみないで、きちんと見て考える・・・・そうすることに、そんなに高度な頭はいらない。ちょっと考えてみる。それだけのことだ。
それすらしないで、加減乗除だけの物質観だけで人生を見る。
テレビを見ていても映像と違う解説をやられても、まったく気が付かない。コマーシャルをばんばんやられるとどうしても欲しくなってしまう。
大衆操作にサブリミナル効果なんて、高度なことはまったく必要がない。とにかくばんばんやれば、それで大衆は動くと思われている・・・・個々のセンスや人柄はとてもいいのに、大衆としてはバカ扱いされている。

2010年7月8日木曜日

はじめに言葉があった


「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

ご存じのようにこれはヨハネによる福音書の冒頭の部分である。

「ロゴス」λόγοςはギリシャ語で「ロゴスを最初期に世界原理とした哲学者はヘラクレイトスだ。ヘラクレイトスは世界の本性であるアルケー原子の意味ではない)がまた闘争にあると説いた。そのような絶えず流動する世界を根幹でつなぐのがロゴスである、とされた。ロゴスはここでは、世界を構成する言葉、論理として把握される。」のロゴスである。
また、ヤコブ・ベーメは「アウローラ」の中で、「万物は言葉によって成った」の「成る」という語句を詳しく説明している。


福音書書記のヨハネがこうしたギリシャ哲学を借用していることは明白だ。この福音書が指している「言」とは、話し言葉や文章に使ういわゆる言葉ではない。世界原理としてのロゴスだ。

多くのキリスト教聖職者が、このロゴスを人を勇気づける言葉とか、気の利いた説教としての話し言葉として勘違いしたり、思いこんだりしたりしているが、ほんといいかげんにして欲しい。

なんでこんな勘違いをするのだろう。勉強不足以前の問題なのに、それがまかり通っている!


福音書記ヨハネは真意がまったく伝わっていないことを、落胆していると思う。



ロゴスの意味はもちろん通常の話言葉の意味ではない。
日本語の言霊やむすひという意味に近いが、ヘラクレイトスはどうやらロゴスを物理的な力であると考えていたのではないだろうか。核力の強い力と弱い力や電磁気力・・・そして重力を含む物理的な力、ものとものとを繋ぐ自然界の四つの力(強い力、弱い力、電磁気力、重力)を想定すると、なるほどと思う。

また、人の心と心をつなぐ物質的でない重力のような力もこれに含んでもいいのではないか。
人の心と心を繋ぐ力も重力に似ていなくもない。近づくほどにその相互作用は強くなるが、離れればその二乗に反比例するほどだ。人は近づけば近づくほど親しくなりやすい。(嫌いになる場合も、近づけば近づくほど嫌いになる。)

原子核は陽子と中性子が強い力によってがっしりと固まっている。そして電子がその周りに存在している。こうした力はまるで強力な糊だが、それらは常に光速で動いている。
ヘラクレイトスが「アルケー原子の意味ではない)がまた闘争にあると説いた。」・・・原子の世界では、それらが光速で動き回っているが、火または闘争というのはそうした現代物理と同様なイメージだったのではないか。

まるで現代物理学を知っていたかのような表現であるが、宗教経典や古代の哲学書には以外と多くこうした記述が多く残っている。
ヨハネの福音書に限らず、仏教経典にもそう思われる箇所が多々ある。阿頼耶識と無意識、
や大論の九・・「十方恒河沙の三千大千世界を名づけて一仏国土と為す。」
これはまるで多重世界を思わせる。
浅学ながら、これまでいろいろな書に目を通してきたが、「ああここも!いやこれも!」と、何故1000年2000千年前にこうしたことが分かるのだろうと不思議に思っていた。

ヨハネ福音書のこの冒頭の記述もまさに、ぼくの好奇心を大いにくすぐるのである。もし、ぼくがもう少し若ければ、この福音書をラテン語やギリシャ語でおさらいしたいと思う。

2010年7月6日火曜日

未知との遭遇 その二 古事記の古代歌謡


古事記で死に関した記事、それも特徴的な記事をというと、それはやはりヤマトタケルノミコトの白鳥伝説だろう。タケルが死んで白鳥になって飛び去ったという神話だ。
鳥居の起源や、ラスコー洞窟の司祭らしき男が手に持つ杖にも鳥の彫刻があり、死を鳥に結びつけて考える風習は太古から全世界にある。

ヤマトタケルノミコトは父の景行天皇の理不尽な命令によって、諸国を転戦させられ、「新治、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる」という強行軍を強いられ、最後にはめちゃくちゃに疲れて愛するミヤズヒメを思いながら息絶えてしまい、その魂が白鳥になって飛び去ったというものである。

そのあたりのことを古事記は次のように記す。

「后等御子等、諸々下り到りて、御陵を作り、即ちそのナヅキダに這いもとほりて、泣きまして、歌ひたまひしく、
なづきの田の 稲幹にイナガラ)に 稲幹に 這いもとろふ、トコロヅラ
と歌ひき・・・」

六・五・五・六・五 ・・・後世の和歌の五七五七七が成立する前の韻踏みだ。

后等・・・複数となっている。ヤマトタケルはもてもての男だった。
トコロヅラは蔓科の植物で螺旋を描いて巻き付くもので、この歌謡はその螺旋をテーマにしている・・・この田圃は神となったタケルに捧げる稲を作る聖なる生産地である。


この歌謡をバックにした当時の舞踊を見てみたいものだ。
想像では白を基調にした長い裾、長い袖の緩やかな衣装に身を包んだ美しい乙女が、ゆっくりと回転したり、バレーダンサーのようにくるくると回ったり、大きく跳躍したり、そのしなやかなで優美な舞踊によってわれわれを幽玄の彼方へ誘ってくれるだろう。

そして、この歌謡の意味は国語学の大先生たちが解説する内容とは大きく違う。以下はもちろんぼくの解釈だが、きっとぼくの解釈の方がおしゃれだ。

「誰もがよく知っているタケルの聖なる田圃に生える蔦よ、トコロヅラよ、お前はくるくると回って稲に巻き付いているが、黄泉の国に行く際のあのトンネルや、上昇感や下降感を知っているから、そんな風に螺旋を描くのかい、もし、あちらの世界を知っているのなら、トコロヅラよ、あちらの世界がどんな風なのか教えてくれないか」
 

未知との遭遇


このタイトルだと宇宙を思い浮かべるだろう。
でも考えてみると、そこは推理類推できる既知なる所だ。科学であらかじめ知り得る範囲と言える。何故なら、光学望遠鏡や電波望遠鏡で見ることができるし、素材は地球にあるものと同じもので元素周期表の範囲を出ない。温度も高い低いだけのことで、その存在を理解できる。不可思議に思えるだけである。

ではわれわれにとって本当に未知の世界とは・・・・。
深遠なる宇宙よりも、ずっとずっと未知の世界・・・。
死の世界だ・・・そここそ、まさに未知の世界。
数々の宗教教典が,そこについて述べ、臨死体験の本が山ほど出回っている。でもあいかわらず分からない未知の世界。
死の世界こそ、生きている人間にとって未知の世界。

人は必ず死ぬというのに、その世界を誰も正確には知らない。

未知との遭遇、そんな映画もあったが,死との遭遇の方が重要だ。
誰にでもやってくる平凡な事象だが、人生においてもっとも頭を悩ます問題だ。
なぜ、こんなに平凡なことなのに、きちんと取り組んで考えないのだろう?

宗教者に質問しても、常套句で煙にまかれるだけ。彼らも、物質的なことに翻弄されているのだから無理もないが、それにしても情けないことだ。
あの世があるのなら、あると答えるべきであり、無いのなら無いと答えるべきであるが、ほとんどの宗教者はこのことを駄弁と詭弁だけでお茶を濁し、ぺらぺらおしゃべりするだけ。

確かに、生きるということは結構忙しい。
宗教者だけにかぎらず、必ずやってくる平凡な事象だというのに、われわれは忙しさにかまけてなおざりにしてしまっている。

われわれが本気で取り組まなくてはならないのは一体どちらだろう。宇宙だろうか,死の世界だろうか。
どちらも重要だ、などと逃げてはいけない。

人生において死より重要なことはない。

ぼくは今回癌になった。しかし、命乞いをする気持ちになれない。
なぜなら、夜も眠れるし、転移についてもそれが恐怖の対象ともなっていない。今のところ死の恐怖もない。ただ、宗教者と違って三才のころからこれまでずっと死のことを考え続けてきたが、このような自分を傲慢だと思う。この平凡な事象に対して真摯に考えることができないからだ。
神秘体験を含むこれまでのいろいろな体験から、死は当然のことであり、人生は死と生の両面のバルドゥをワンセットにしていると思っている。なぜ今生にさほど未練や禍根の念を抱かないのか。
明らかにぼくは傲慢だ。そのことが気になってしようがない。

その傲慢さについて、ぼくは不安と不満と猜疑を自分自身に持っている。
死への恐怖よりもそれが理解できないことがぼくにとって重要だ。

生きているのに、この世界を浮き世的感覚で過ごしてきたのではないか。これは生に対する冒涜ではないだろうか。未知の世界の存在を確信しているが故に、またおぼろげにその風景を垣間見てきたことが、ぼく自身を貶めている。

現在のぼくの未知の世界に対する感想である。

2010年7月5日月曜日

ニーチェの言葉を借りれば、彼ら宗教組織はペテン師だ。


絵は「荒野のキリスト」である。
ぼくはこれまで、高度な知識を携えた宗教組織には高貴な何かがあると考えていた。
ところが、歴史を紐解くと仏教やキリスト教組織のおぞましいばかりの悪行(戦争・殺人・奴隷売買・略奪など)は数知れない。十字軍の悪辣な行為、魔女裁判のおどろおどろしい事実、「天皇のロザリオ」にあるように聖人の行う残酷な行為、勧進聖たちの守銭奴的行為、戦闘や徴発を行う僧兵、権力と癒着した仏教組織・・・莫大な富を集めた結果の華麗な建築物(バチカン・法隆寺・国分寺などなど)が愛や慈悲に則っているとはとうてい考えられない。


それは、宗教権力者が仏教やキリスト教を正しく解釈していないからであり、宗教組織の存在は人類にとって必要であり、いつかはそれが人類を高い叡智に導くのだろう・・・とぼくは漠然と思っていた。

だが、宗教がなしてきた数々の悪行と善行を比べてみるとどうだろう。まったくのぼく個人的感想だが、宗教組織のバランスシートは宗教権力の維持に50パーセント、それに伴う悪行に30パーセント、意味のない堕落的行為に19パーセント、そして善行に1パーセント・・・そういったことに集めた富を費やしてきた、そんな感じに見える。

宗教組織のバランスシートを見てみたいものだ。けばけばしい建物の費用、おびただしい官僚的人員の費用、神や仏をきちんと意識もしない組織拡大と維持のためのプロパガンダや儀式の費用、またトップや取り巻きたちの乗る高級車や別荘の費用、彼らが囲う愛人の費用・・・。
もし、宗教組織のバランスシートを見たら、多分世間は仰天するだろう。このことに宗教組織の経理担当は反論できない。反論したいのなら、バランスシートを開示しなければならないから。


仏陀から2500年、キリストから2000年・・・相変わらず戦争・犯罪は限りなく続いている・・・宗教組織は人類の平安をはじめから度外視している。

現代まで続いているそうした宗教組織は政治的権力、暴力的権力、経済的権力となんら変わりはない。
御殿の中で涼しい顔をして愛や慈悲を唱える宗教権力者は、思い上がった罪人である。彼らは人類を貶めている。
社会的動物である人類を導くには、組織や財力、暴力が必須なのであり、それはいたし方のないことであり、現実を直視すればそうした手段を選択することは当然のことであると、考えている。しかし、われわれをどこへ導こうとしているのか?

これまで数千年間何もしなかったに等しい。いや、彼らの組織は人類にとって無いほうがかえって良かっただろう。
ニーチェの言葉を借りれば、彼ら宗教組織はペテン師だ。

宗教組織のどす黒い権力者は思い上がっている。向こうのフィールドを無視した即物的低脳の輩だ。自らの現世的物質的恩恵を求める守銭奴であり、権力を振り回すことによって人類を貶めている。愛だ慈悲だと叫びたいのなら、まず集めた富を人々に返すべきである。

2000年も2500年も愛や慈愛を説いている宗教がこれまで一体何をしてきたのだろうか。自己欺瞞と思い上がりの上に構築された虚偽の教えで人々を支配してきただけだったと、自らを神や仏の前で反省するべきである。
(するわけがないだろうが・・・宗教者の思い上がりは半端ではなく、自らを善なる存在だと信じる確信的背徳となっている。彼らが神や仏と呼ぶ存在は確実にサクラスと呼ばれるデーミウールゴスであり、悪徳の権化である。

どす黒い肥った豚とヤコブ・ベーメが呼ぶ存在が古今の宗教者である。
口から先に生まれたようなおしゃべりな聖職者がその教義の根拠をどこに置こうとも、彼らの為してきたことは悪行であった。免罪符を売り、鹿食免を売ってきた。また当然だが近現代の新興宗教も同罪である。)

そうした、宗教者の思い上がりは、宗教の解釈に問題があるのではなく、流布されている宗教とその概念そのものが間違っていると言わねばならないかもしれない。

どういうことかと言うと・・・・。

もし、イエス・キリストがバチカンの前を歩いたとしたら、彼はその建物が自分の教えのもとに建てられたとは考えもせず、うっかり素通りしてしまうだろう。
豪華な建物の中で愛だ慈悲だと叫んでいる彼らを偽善者か狂人だと思うだろう。
なぜなら、豪華絢爛な建物の中で行い澄ます・・・バイブルを読めば分かるが、イエス・キリストは一回だってそんな行為をしていない。


もし、仏陀が奈良や京都の大寺院の前を歩いたとしたら、彼はその建物が自分の教えのもとに建てられたとは考えもせず、うっかり素通りしてしまうだろう。
豪華な建物の中で愛だ慈悲だと叫んでいる彼らを偽善者か狂人だと思うだろう。
なぜなら、豪華絢爛な建物の中で行い澄ます・・・仏陀は一回だってそんな行為をしていない。
仏陀存命中に書かれた当時の紳士録であるイシバーシヤーイムにはシャーキャームニ・ゴータマ・シッダールタの名は記されていない。代わりに仏教の開祖としてシャーリプトラの名があげられている。


彼ら宗教組織の権力者たちは知らないだろうが・・・・神や仏のような超存在は確実に実在しているし、霊的世界はほんの肩越しに誰もが自覚できる近さにある!

2010年7月2日金曜日

“Blessed are the poor in spirit ,・・・続き


マタイ・マルコ・ルカの三福音書は共観福音書と呼ばれ、似た記述が多い。Q資料と呼ばれる未知の原資料を使用したからであると考えられているが、(そのQ資料は発表されていないだけかもしれないが)、特定できていないことになっている。ちなみにヨハネの福音書は一番後に書かれたもので、それら三福音書と大分趣がちがう。

さて、「心の貧しき者は幸いである」とマタイ福音書に書かれている。

ルカ伝・六章・20節には・・・。
『貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから』

次にナグハマディ写本にあるトマス福音書には・・・
『イエスが言った、「あなたがた貧しい人たちは幸いである。天の王国はあなたがたのものだから。」


マタイ福音書だけ“the poor in spirit ”・・・in spirit がついているために、解釈が難しくなっている。
また、用語を見ると、マタイとトマスは天の王国で、ルカは神の王国となっている。
この表現は考えてみるとずいぶんと違う印象だ。天の王国、神の王国・・・天と神は明らかに違う。
「信仰があれば、そんな些細な表現の違いはどうでもよい!」・・・・と考えることは宗教的堕落である。

これらのキリスト教の聖典が書かれはじめた時期・・・エイレナイオスが火を点けたヴァレンティノス派などとのカトリック派の論争の時期についても考えなくてはならない。

また、プロトタイプが最も正しいとする考え方も、宗教を論ずる上で独善的な悲しい思い上がりだ。向こうのフィールドから流れてくるそれが一時にどっとくるわけでもない。

しかし、バイブルを一節読むたびに、考え込んでしまうのはぼくだけではないだろう。

2010年6月21日月曜日

“Blessed are the poor in spirit , for theirs is the Kingdom of heaven”


キリスト教聖書・マタイ伝・第五章
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
ギリシャ語やラテン語ではどうなっているのか分かりませんが、英文では 
“Blessed are the poor in spirit , for theirs is the Kingdom of heaven”
となっています。Spirit を心と訳しています。
辞書で spirit を牽いてみると・・・。


心 (soul)
・in (the) spirit 心の中で, 内心
・the poor in spirit 心の貧しい人たち《★聖書「マタイによる福音書」から》.
a (人体と離れた)霊魂; 幽霊, 亡霊 (ghost).
b [しばしば S ] (神の)霊, 神霊
・the spirit world 霊の世界
・the Holy Spirit 聖霊.
c [the S ] 神; 聖霊.
d (天使・悪魔などの)超自然的存在
・evil spirits 悪

心に括弧して、soul とあります。・・・で、soul を牽くと・・・。

soul /s l

a 霊魂, 魂; 死者の霊, 亡霊
・the immortality of the soul 霊魂の不滅
・the abode of departed souls 肉体を離れた霊魂のすみか, 天国.
b 精神, 心 (spirit)


ここの心はmind や heart ではなく、soul 的な心という意味なのでしょう。どちらかと言うと身体に対比される思考や霊魂という意味合いが強いように感じます。
しかし、「霊魂、魂の貧しい人は幸いである」としても、やはりこのままではあいかわらず意味がつかめないままとなってしまいます。

 

ところが、西暦二世紀からカトリックに異端とされたキリスト教グノーシス思想からみると、この言葉は決して不自然ではなくなります。”the poor in spirit”  は当然のことなのです。リヨンのカトリック司祭エイレナイオスの時代でも、ここの解釈は多分にグノーシス的であったはずです。なぜならカトリックもユダヤ教、ヘレニズム思想、ミトラ教、グノーシス思想の一部であったからです。それはキリスト教成立史などを紐解けば理解できます。

そこで、グノーシス思想ではこの spirit をどのように捉えていたのかというと・・・。


グノーシス思想では人間(ミクロコスモス)を霊と心魂と身体の三部分としてとらえます。それと対比して宇宙(マクロコスモス)も超越的プレーローマ・超越的な光の世界と、中間界、物質界として考えます。
すると心魂はマクロコスモスに対応してみると、中間界に位置します。この中間界と人間の心魂の結びつきが強い、あるいは思考が物質界と結びつきが強いことは救いから遠いことになります。

spirit が中間界や物質界と結びつきが弱いほど、つまり poor なほうが、より救いに近いということになります。

つまり心魂が物質にどっぷりと依存していない状態、それが ”the poor in spirit” 「心の貧しい者」 なのです。
ただ、日本語訳だと、ここの部分は「心が貧相な・・・」というふうに読めてしまうので、分かりづらくなってしまうのです。

2010年6月13日日曜日

高度な知的生命体


われわれ人類が想像する高度な文明の都市の様相というと、自動車が空を飛び、大気圏外にまで伸びる高層ビル、物質的に豊かな人々・・・を思い浮かべるが、実はまったく違う。

もし、われわれ人類が高度な知的生命体の住む星を訪問したなら、一体どこに彼らが住んでいるのか分からないはずだ。その星の有様はまるで人類の出現以前の自然そのものだ。
建物はもちろんのこと、人工的な存在物をこの星で捜してもまったく見つからない。

なぜなら、彼らはもの・ことを自在に操ることができるので・・・。
自分の姿や環境を如何様にも操ることが可能だろう・・・実に人間臭い表現だが、たとえば美女、美男になり広大な邸宅を持ち、技術的に高く美しい芸術もいつでもどこでも手にすることができるので、何も必要がない。当然どこでもドアも持っている。(そのドアの名前は人間が名付けたUFO である)
それらは物資的に依存したものではないから、一人一人が棟梁だ。

物質的でないからと言って、現在の人類が言うところのおもちゃのようなバーチャルではない。リアルそのものだ。先にもふれたが、この宇宙の構成はダークマターとダークエネルギーが96パーセントで、われわれが物質と呼ぶ存在はたったの4パーセントにすぎない。
銀河や星間物質、光など諸々の波を全部集めても4パーセント・・・。
物質世界の出来事こそバーチャルと言えるのではないだろうか。

グノーシス的な表現をすると、この4パーセントの物質をもとにして、混沌と奈落を母とするヤルダバオートという造物神ができそこないのこの世界を作ったということになる。
この創造神をサクラス(愚か者)とこき下ろすナグハマディ写本も納得がいくというものだ。
(この説明は長くなるので、興味のある方はメール下さい。ご説明させていただきます。ここでは、岩波書店・ナグハマディ文書の補注から以下引用するだけにとどめます。
ヤルダバオートという神は、プレーローマの中に生じた過失から生まれるいわば流産の子で、自分を越える神はいないと豪語する無知蒙昧な神。多くのグノーシス救済神話は、旧約聖書の神ヤーウェをヤルダバオートと同定することによって、特に創世記の冒頭の創造物語と楽園物語に対して価値逆転的な解釈をする。 )

 考えてみれば高層ビルは鉄の棒の周りに砂を固めて張り付け、外装をガラス質のもので覆っている物質的なものでアリ塚の大型判にすぎない。また人類のビルのほうが複雑であるということは、たいしたことではない。コンセプトはアリ塚とまったく同じである。アリが数億年(もっと早いかな)の未来に構想ビルを建てることが可能だ。

さらに人類が動力源とするものは摩擦や作用・反作用やベクトルの方向や、重力に縛られており、限界がすぐに来てしまう。例えばエンジンを高速で回すと熱が生じて、熱に負けてしまう。まっすぐ走っていて、右に曲がろうとすると遠心力が働いてしまう。宇宙空間を通過する場合は弱い力なのだが、星々のその重力に逆らってしまう。

つまり、現在の人類は物質型の創造と発展、そして物質に依存した思考方法によってリアルな文明が築けると信じている。実はこちらは結構バーチャルなのである。本質は別の所にある。(文明とは何かをここでは棚上げとする)

しかし勘違いしてはいけない。人類が数百万年間ずっと思考も行動も物質依存症候群であったわけではないだろう。過去にはこの病気を克服したこともあったと考える根拠(神話・民話・オーパーツや過去の遺跡、言い伝え、不思議な話)もずいぶんあるように思う。

例えば、芸術はそれを表す物質(墨や絵の具、石や木、文字・記号、紙)のことを指しているのではなく、それらの物質が表す存在の背景にある本質を表現するものだ。そうした思考法による文明のほうが、宇宙の法則に近いような気がする。

現代人は科学や数学的法則をまるで神の摂理のように信仰し、科学や数学こそが宇宙万物の真理だと考えてしまっているが、実は違うだろう。芸術のような思考方法こそが宇宙万物に通用する真理だと思う。


数学的法則は宇宙全てに共通するものであり、高度な宇宙人にも理解してもらえると、科学者は思い上がっている。残念だが、そんな数式を彼らに見せても意味がない。

それより、一緒に踊った方が、一緒に笑った方がいいのではないか。

2010年6月6日日曜日

小学6年生の社会科の教科書から消えていた縄文時代


「日本の歴史を扱う小学6年生の社会科の教科書から消えていた縄文時代が、来年度の教科書から10年ぶりに復活する。・・・小6社会の教科書は「ゆとり教育」に伴い、1998年の学習指導要領改訂で、最も古い時代の記述について『農耕の始まり、古墳について調べ、大和朝廷による国土の統一の様子が分かること』と規定。2002年度以降の教科書からは、農耕が始まったとされる弥生時代から記述が始まり、旧石器時代と縄文時代は原則として消えた。」5/28読売新聞

 ゆとり教育についての批判は聞いてはいましたが、1998年の学習指導要領についてぼくは全く知りませんでした。

縄文時代はこの列島に根付いたわれわれ人類の基礎です。記紀に反映している神話のプロトタイプが、縄文土器の図柄の最新の研究成果から縄文時代にあったと考えられるようになっています。それほどにこの列島について重要な時代なのです。また、高度に整った社会があるにもかかわらず、戦争をしないという人類史上最も素晴らしく、最も美しい世界を構築していた時代です。子どもたちにきちんと教えるべきでしょう。


しかし、教育について・・・・愚民化政策とでも言うのでしょうか。最近の子どもたちの知的レベルの低さにはまったく驚きます。当然大学生になってもその状態は続き、本を読んだり、考えることができなくなっています。

最近、携帯片手に虚ろな目で座り込んでいる青年のなんと多いことか、青年は本来目がキラキラして活発であり、進取気鋭の精神に富んでいるはずです。ヨーロッパでもアジアでも外国に行くと分かります。善し悪しは別として、世界の青年たちの目はキラキラとしているのが常です。

日本の若者は世界に乗り遅れてしまいました。年齢は若いけど、精神・心は老人・・・この列島で初めての現象です。いや、世界的にも珍しい現象でしょう。戦争や飢餓があるのならそうなっても仕方がありませんが、そんなことはないのに虚ろな目、若々しくない青年・・・どうしてだろう?

大人たちも変です。小さなことに目くじら立てます。車がちょっと汚れたりキズがついたりすると、もう大変です。変です。洗車のためにたくさんの水を浪費する人が、平気で「水を大切にしましょう」なんて言います。
山の木々を切り倒し、たくさんの動物を殺して作ったゴルフ場でビール片手に「自然はいいなあ、自然を大切にしなくては・・・」なんて言ったりします。これは勘違い、錯覚の類ではなく、分裂気味で頭がおかしいとしか言わざるを得ません。

また仕事や日常の生活でちょっと気分が塞ぐと、「私ってウツなの」となり、周囲の同情を買おうとします。生活してれば、気分が塞いだり、陽気になったりするのは当たり前のことです。

ささいなことに目くじら立てて、いらいらする。針小棒大・・・なんか最近の人々はそんな感じです。

縄文時代の知識は大切です。おそらく縄文時代に培われた精神・思想をわれわれが思い出せば、日々の生活はもっと楽に楽しく美しくなると思います。美しい縄文時代は1万数千年・・・心や精神が不安でいっぱいになってしまう近代文明はこの列島では100年ちょっとの歴史しかありません。

ここでユングやフロイトを持ち出すまでもなく、われわれの基層の精神・心は縄文時代にあることは明らかです。縄文時代の人々については拙著「リーラーの宇宙」をお読みになって頂ければ幸いです。

2010年6月5日土曜日

ある会話


又聞きで恐縮ですが、ある二人の人が次のような会話をしていたそうです。

A「いやー、こんな話親しくならないととても話せなくてね・・・」
B「そりゃそうだ、頭、大丈夫?なんて言われちゃうよね」
A「Bさんが、首のしこりが悪性でやばいから、病院行って来る・・・なんて言うんで、こんな話になったんですよね」
B「うん、まさかあの世の話とかするとは思わなかったよ。あんたが冗談じみてあの世はあるんですよ、なんて言ったんで、こいつおれが直ぐ死ぬと思いやがったな、と思ったよ」
A「もちろん、Bさんの首のしこりが本当にやばかったら、悪くて・・・あの世の話なんてできなかったですよ。大丈夫だと知ったので、なんとなくお互い60過ぎてるし、Bさんはもうすぐ70でしょ、向後のためと思って少し話したいなと思ってね」
B「そうなんだよ、おれもこんな話、普通のやつとはしないよ」
A「昨日ね仕事で、先月亡くなった方の隣に行ったらその方がご自宅の縁側におられたんでね、それに今日もご自宅の隣を歩いていたら、その方の声がしたんで、すいません、今日は見えないんですよ、すいません・・・なんて小声で言ったおいたりしたんですが」
B「そうなんだよ、見えると結構疲れるよね、高尾山に行ったら滝の上にずらっと武者が並んでいたり、パチンコに行くとおれにしか見えない源さんが、よおっ、今日はこの台が出るよなんて案内してくれて、本当に10万円くらい勝っちゃたり・・・」
A「いやー、ぼくなんか運転していて二人くらい轢いてます。突然前に人が現れ、急ブレーキを踏みました。いや、轢いたときは恐ろしさで動けなくなりますが、ふと気が付くとなんのショックもなかった・・・・車を降りて車の下を見ても何もない、そのへんを歩いている人たちも普通に歩いている。ああ、そうか・・・・なんてね」
B「ねえ、なんか睡眠時間に関係あるじゃないのかな。夜眠れなかったりして、極端に睡眠がとれないとき、よく見ないか?」
A「そうなんですよ、疲れすぎたり、睡眠時間が少ないとどうしてもなんか、見えてしまう。不思議ですねえ。幽霊さんたちって以外とこっちにいるんですよねえ」
B「うーん、死んじまったのに、こちらに未練を・・・ていう感じかなあ。死んでしまっているのに、ずっとこっちにいるってのは、あんまりよくないみたいだけどね」
A「そうなんですよ、古代からのいろいろな書物にも、さっさと向こうへ行かないと、差し障りがあると書いてあります」
B「なんだ、それ、差し障り?」
A「ええ、その人の魂に差し障りがあると・・・」
B「ほう、そうなんだ」
A「ええ、そうらしいですよ。肉体があった頃の自分を本当の自分だと思って、魂が落ち着かないでいるのは、かなりやばいらしいです。魂だけが本当の自分なのにねえ。肉体のこととか、現世の状況は、生きてる時はひどく現実的に重要なように見えますが、実はそうでもない、だから、死んだ後ね、あんまりこっちにいると、かなり、やばいみたいです」
B「かなり、かね」
A「ええ、かなりやばい状況らしいです。さっさと先へ進むべきだそうです」
B「へー、まあ、そんな感じもするなあ、肉体がなくて魂だけでこの物質世界にいてもなんの得にもならない。おそらく、そういう状態というのはものすごく疲れると思うよ」
A「でも、こんな話、とても普通に人には話せませんね」
B「はははは、まったくだ。物質的この世が全てだと錯覚している人は聴く耳持たないしね」

2010年5月26日水曜日

箇条書きのような・・・


折を見て「ナグ・ハマディ」の精読に努めている。当然のことだが、なかなか読み進めない。「ヨハネのアポクリュホン」「トマスの福音書」「真理の福音書」などは何度も読み返している。また新約・旧約聖書や旧約聖書外典(アポクリファ・聖公会出版)などを手元に置いて参照している。そしてこれらを読み比べてみると正典の四福音書は実によく整っている。それもそのはず、マルコ福音書などは12宮星座の順序によって編まれているという説もある。聖典を記憶するために、整えられたということである。

記憶術の一つに自分の家を対象にするというものがある。例えば四つの単語を覚える時に玄関、廊下、居間、書斎に一つずつあてはめていくもので、玄関を思い浮かべると同時にその単語が脳裏にわき上がってくるようにする技術だ。単語を自分と密着した場面に置いていき、即座にエピソード記憶にして長期記憶としてしまう、という手法である。数字や記号を使うよりはずっとやりやすい。なんとなくインド式計算法の感覚に似ているような気もする。

マルコ福音書の構成が12宮星座に当てはめていったのでは、という推理はなかなか面白い。この説明をここで12星座全部について、その説の引用をするにはこのブログではできないので、ご興味のある方はメールを下さい。ご説明いたします。


さて、四福音書は時系列に沿っているし、物語的というか文学的に他の文書とは違ってよく整っている。相当手が入っているという印象が強い。例えば仏典の初期に編纂された「スッタニパータ」と大乗仏典のような違いを感じた。つまり仏教経典もキリスト教典も初期のものは、ほとんど箇条書きのような形式だが、仏陀入滅後、キリスト昇天後からかなりの年数が経てから編纂されたものは文学的にも物語的にもよく整っているのである。

しかし「創世記」や「出エジプト記」「ヨブ記」など旧約聖書が整っていることとは別の問題である。なにしろ、旧約聖書はユダヤ教のものだし、新約聖書は時間的に旧約の上にあって成立しているものだから。例えば「イザヤ書」の53章にはキリストが世に出ることを預言していることなど・・・。また、龍樹など般若部の経典などはまた別の視点から見なければならないのは当然である。
ここで問題としているのは、イエスや仏陀の言動、行動の表現方法ということである。

仏典「スッタニパータ」の冒頭の部分は次のような箇条書きだ。
一 怒りが起こったときには、全身に拡がる毒を薬草でおさえるように、その怒りをおさえる出家修行者は此岸をも彼岸をも捨て去る。蛇がもとの抜け殻を捨て去るように。

二 水に潜って池にはえている蓮華を切り取るように、愛欲をまったく切り取ってしまった出家修行者は、此岸をも、彼岸をも捨て去る。蛇がもとの抜け殻を捨て去るように。

三 奔流の水を涸らせ、渇望ををまったく切り取ってしまった出家修行者は・・・・


聖書外典「ソロモンの智慧」
一 地を治むる者どもよ。義を愛せよ。正しきをもて主を思い、まごころもて主を求めよ。
二 主は、主を試むることなき者に見いだされ・・・


ナグハマディ写本「トマスの福音書」

三六 イエスが言った・朝から夕まで、何を着ようと思いわずらうな。

(マタイ伝福音書第6章28説には「また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」・・・極めて文学的表現となっている)

三七 彼の弟子たちが言った。「どの日にあなたは私たちのものに現われ、どの日に私たちはあなたを見るでしょうか。

イエスが言った。「あなたがたがあなたがたの恥を取り去り、あなたがたの着物を脱ぎ、小さな子供たちのように、それらをあなたがたの足下に置き・・・

 マタイ・マルコ・ルカ・・・そしてヨハネによる福音書はご存じだろうが、こうした箇条書き的ではない。

2010年5月24日月曜日

ナグハマディ写本


  喫茶ギャラリーZAROFFでUFOシャンソンの企画に参加していることを前に書きましたが、その際グノーシス思想のナグハマディ写本を使う予定があります。 一昨年に書いたメモを下記に置きます。



ナグ・ハマディ写本はエジプトのナグ・ハマディ村でアラブ人の一農夫が大きな瓶に入っている52本の写本を偶然発見したものである。発見場所はナイルからほど遠くない山の麓だが、まず行く機会は得られないだろうから、グーグル・アースで見てみるとそこは荒涼とした岩山だ。発見場所から8キロほどのところに、かつて四世紀にパコミオスが創設した「パコミオス共同体」の遺跡がある。1600年前、ここの修道士の一人がこのパピルス古写本を埋めたのだろうと推測されている。

西暦紀元170年頃、当時のキリスト教は極めて多様性に富んでおり、グノーシス思想をはじめとしてユダヤ教、ヘレニズム思想、ストア哲学、オリエント思想、そして仏教・ヒンズー思想が混在していたようだ。まるでマニ教の前身のようでもあった。(現在の仏教、回教、キリスト教などを統合したようなかつての世界宗教。マニ教ではナグ・ハマディで発見されたトマス福音書も聖典の一つとなっていた。)
当時キリスト教はローマ帝国の弾圧にもかかわらず、驚くような早さで信者が増えていた。現在のフランスに地にて司教を務めていたエイレナイオスはそのような多様性からカトリック(普遍的統一教会)の構築を目指し、自らが正典と認めたマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書以外の福音書とグノーシス文書を徹底的に批判していた。


その約二百年後、ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を合法化すると、権力指向であったそのときの司教アタナシウスは325年の皇帝臨席のもとのニカイア会議を受けて、エイレナイオスのカトリック構築の手法を踏襲した。ここにカトリックが成立した。エレーヌ・ペイゲルス「禁じられた福音書」には当時の様子が記されている。


当時のヨーロッパではカトリックの構築は着々と進んでいたが、エジプトのキリスト教徒は反抗的であった。そのため正典以外の文書をことごとく破棄するようエジプトのキリスト教徒に命令した。エイレナイオスの考えをさらに強く押し進めたアタナシウスがエジプトの多様なキリスト教徒を自分の監督下に置こうと、ニカイア会議で決めた聖典以外の文書は全てけがれた偽書であるとして、読むことはもちろん所持してもいけないという命令を出した。アタナシウスがローマの軍事・経済力を背景にしているのでエジプトのキリスト教徒はこの命令に屈せざるを得なかったが、アタナシウスの命令に背きパコミオスの修道士が後世ナグ・ハマディ写本と呼ばれる52のパピルス文書を修道院から持ち出してひそかに山の麓に埋めていたことは誰も知らなかった。完璧な「焚書坑儒」は1600年前間功を奏しさたかに見えたが、1945年ついに封印が解かれた。




そして現代キリスト教世界とその周辺に凄まじい波紋を描き出すこととなったのである。
マタイ・マルコ・ルカの共観福音書のもととなるQ資料ではないのか!
創造主はデーミウールゴスという悪神であり、物質世界を作って人間の魂を物質に閉じこめた!
眞なる神はデーミウールゴスの上位にあり、人間はグノーシスによってこの眞なる神を知ることができる。
イエス・キリストは神と同等ではなく人間である。
われわれはグノーシスによって誰でもがキリストになれる!・・・・マグダラのマリアはキリストの奥さん、アラム語で双子の意味をもつトマス・・・キリストの双子の弟でインドに赴いて布教を行い、その知識をもとにして「トマス福音書」を書いた!
「真理の福音書」はヴァレンティノス派がグノーシスを得るために行う儀式の際に読誦されたのではないか?
「ヨハネのアポクリュホン」が描き出す創世の話は正典の神話的創世記とはまったく異質で難解な哲学書だ。「アルコーンの本質」に至っては・・・・。正典である「ヨハネの福音書」はエイレナイオスの時代にカトリック運動を推し進めるために作られたものではないか?
だから他の三福音書と様相が違う?
しかしキリスト教の異端であると烙印を押されたグノーシス派は1600年間営々と秘密裏にそれを述べ伝えていた?
 


ナグ・ハマディ文書の日本語訳は極めて難解だが、おそらくコプト語やギリシャ語であっても同様に難解だろう。正典と違って欠損箇所がありあまり脈絡がない。時制的連続性もない。しかも箇条書きのスタイルが多い。




カトリックが正典と認証したマタイ・マルコ・ルカ、そしてヨハネ福音書のように物語的、文学的な体裁はあまりない。研究者によればこうしたナグ・ハマディのスタイルは「キリスト語録」のようなものを底本にして書かれたもので、四福音書のようにキリストの伝記として書かれたものではないからだろう、としている・・・となると、潤色されていないキリストの言葉に近いのではないか・・・そんな思いもする。




読者を対象にして書かれたものではなく、最も初期の仏典「スッタニパータ」のようなものに比定されるのではないか。また仏教におけるそれぞれの部派仏教の「ニカーヤ」のようなもので、まだ体裁が整えられていない段階のキリスト教の聖典と位置づけることができるかもしれない。


仏教経典が「如是我聞・・・」という書き出しを踏襲しているが、例えば「トマスによる福音書」は一行一行が“ Jesus said. “ で書き出されている。キリストの言葉の「如是我聞」なのかもしれない。




とにもかくにも、現代キリスト教を根底から揺り動かしてしまうような凄まじい文書群がナグハマディ写本なのである。

2010年5月21日金曜日

三重世界


量子力学的世界と霊的世界のはざまにあるのが、このニュートン的物理世界である。
この三つの世界は互いに重なっている部分がある。

量子力学的世界と霊的世界は似ている。ニュートリノはまるで幽霊が壁を通り抜けるように、地球という巨大な物質の固まりを瞬時に通り抜ける。先にご紹介した欧州合同原子核研究機関の大型加速器(LHC)で素粒子をぶつける実験では、二つの粒子をぶつけると仮想粒子が山ほど出現したり・・・つまりもともと一個と一個の素粒子なのに他の素粒子が湧いて出てくるらしい・・・つまり1+1=2 ではなく、1+1=たくさん というような現象も現れる。
まるで想像できない世界だ。われわれの物質世界はそのような摩訶不思議な基層世界によって構築されている。さらにリサ・ランドール博士によれば五次元はこちらの世界と密接な関係があると言っている。
量子力学的世界と五次元世界のはざまにあるのがわれわれの世界ということになる。
さらに、われわれが知り得ている物質は、全宇宙の4パーセントにすぎず、あとの96パーセントはダークマター、ダークエネルギーによって構成されていることが分かってきた。

 物質だけから世界を見るということは、まことに了見の狭い視野なのであるが、悲しいかな知的でないわれわれはそれで全部だと思っている。古代から伝えられている智慧がこうしたことを垣間見させてくれているのに、あまりのバカさ、あまりの近視眼から宇宙について、また今ここにおいて現れる現象について物質的な解釈しかできない。

ベーメの言う三重世界(父と子と精霊)はだから、一般に言う三位一体的キリスト教的世界観とは違う。量子力学的世界とこの世界と向こうのフィールドによって、われわれの世界は成り立っていると言っているのだろう。 (キリストへの道・ヤコブ ベーメ)

父とは天上の世界というニュアンスではなく、まさしくこの世界を支えている量子力学的世界のことであり、精霊なる世界とはこの物理的世界を動かしているソフトが構築されている所を言っているとも考えられる。
この世界は上下の世界と重なり合っているということになろうか。

そうしたことを理解することによって、神の世界、われわれと天使の世界、われわれを司っているソフトの世界・・・その三重の構造を知ることができるのだとベーメは言っているように思える。
この世界を説明するのにたったの四パーセントだけからの説明では、なんともはや心許ない。

2010年5月11日火曜日

超ひも理論とナグハマディ文書


 ナグ・ハマディ写本「アルコーンの本質」第22 (岩波書店・ナグハマディ文書・第一巻から)“ピスティス・ソフィアの過失、流産の子の誕生” には次のように記してある。


上なる天と下なるアイオーンの間には一つのカーテンがある。そしてそのカーテンの下に一つの陰が生じた。そしてその陰が物質となった。そしてその陰は少しずつ投げ捨てられた。そして、彼女が造ったものは物質の中でまるで流産のような業となった。それは陰から形を受け取った。それはライオンに似た傲慢な獣となった。それは、すでに述べた通り、男女である。なぜなら、それは物質から出てきたものだからである。


 次にリサ・ランドール博士の発言をみていただきたい。興味深い一致だと思うが・・・・・。どうだろう? Lisa Randall( 物理学超ひも理論物理学者)と若田さん(NASA 宇宙飛行士)との会話「リサ・ランドール・異次元は存在する」NHK出版から・・・


L「普段経験している3次元の生活空間とはまったく異なった、もうひとつの別世界がある」

W「もう一つの別世界にどうすれば行くことができるのでしょか?」

L「残念ながら、人間がこの5次元世界を感じることはできませんし、行くこともできません。わたしたちの住むこの宇宙は、3次元の膜のようなものの上に貼りつけられているからです。わたしたちはその3次元の膜にぴったり貼りついていて、そこを飛び出して5次元世界に入っていく方法はないのです。たとえ、スペースシャトルで宇宙のどこまで行っても、5次元世界に出ることはできません。しかし、たとえ直接でていって探索はできなくても、5次元世界は確かに存在していて、わたしたちの暮らす3次元世界に驚くような影響を与えている可能性があるのです。

高次元世界における膜は、バスルームにおけるシャワーカーテンのようなもの。わたしたちや、物質は、シャワーカーテンに貼りついている水滴のようなもの。」  



バスルーム・・・・・・高次元世界  シャワーカーテン・・・3次元世界  水滴・・・・・・・・・私達


「アルコーンの本質」の第22はピスティス・ソフィアの過失によって・・・ランドール博士の言葉を借りれば、五次元の世界から吹き出した物質がこちらの世界を造ったと解釈できる。さらにランドール博士は五次元世界はこちらの世界に「驚くような影響を与えている。」と考えている。これはぼくの提唱する向こうのフィールドとこちらのフィールドのアップ・ロード、ダウン・ロードのことだとも言えるし、生きているときの業が死後の、さらに再生へ多大な影響を与えるとも読めるのではないか・・・と、深読みかもしれないが、ぼくにはそのように読める。 


また五次元の世界とはグノーシス派ではプレーローマと呼ばれており、Gnosis (knowledge, insight)によってそこに帰ることが人間の心・魂の最終目的であるとされている。これは仏教の成仏に似たニュアンスだ。


(プレーローマ:ギリシャ語で充満の意。至高神以下の神的存在によって満たされた超越的な光の世界を実現するために、グノーシス主義の神話が最も頻繁に用いる述語。・・・なお、この語が複数形で用いられ、「父のすべての流出」を指す場合もある(真理の福音書)岩波書店ナグ・ハマディ文書 用語解説から

2010年5月10日月曜日

Ave Maria


この絵はレオナルド・ダヴィンチの「受胎告知」です。マリアがイエスを身ごもったとき、大天使ガブリエルがマリアを訪ね、「おめでとう、マリア。恩寵に満ちた方。主はあなたとともにおられる……」と祝福の言葉を述べます。その場面を描いた絵です。
マリアは何かを読んでいますが、これはイエスが誕生する前の話ですから、もちろん新約聖書ではありません。旧約聖書、トーラー・・・そういったものでしょう。

 ZAROFFの「UEOシャンソン」の企画は、天使論でもあることから、バッハ・グノーの「アヴェ・マリア」を使いたいと考えています。この歌は受胎告知を描いていますが、注意深くみると非常に興味深いものです。背景や白百合については専門家に任せるとして、どうでしょう、マリアの頭上にはガブリエルとまったく同じ天使の輪が浮かんでいます。
つまりマリアを天使としているわけです。ガブリエルもマリアも人間の姿をした天使ということです。


 ラテン語からの訳をネットで拾いましたので、ここに引用します。

おめでとう、マリア、恩寵に満ちた方、
主はあなたとともにおられる、
女性のうちで祝福された方、
そしてあなたのお腹の子、イエスも祝福されている。
聖なるマリア、神の御母、
罪人なる我らのために祈りたまえ、
今も、我らの死の時も。アーメン。

「UFO論は天使論」第三回


ZAROFFのギャラリーで6/20、「UFOシャンソンの夕べ」の企画に参加しています。
その一つとして、「Rhapsony in UFO Funikula」と「天使の泉」の作曲があります。
ただ、前者について多少の解説が必要だと感じたので以下、説明させて頂きます。

 シチュエイションは天の川銀河から遠く離れた銀河から、天使たちがUFOに乗って地球見物に来るというものです。この企画ではUFOに乗ってこの星を訪れる存在は天使であるという認識に基づいています。先に「UFO論は天使論」で書いたように、彼らは人間に比べるととてつもなく高度なため、その精神、魂は極めてピュアであります。ほとんど子どものように純粋無垢です。その彼らが、楽しみながら、あたかも子どもの遠足のようになかばはしゃぎながら地球を訪れるというコンセプトによって、作曲してみました。

何光年も何億光年も離れた宇宙から飛来してくる宇宙人が天使であるということは、ヤコブ・ベーメの「アウローラ」や、古代の絵画などから、またぼく自身の目撃の感覚から、そうであろうと考えました。
下記のリンクに「Rhapsony in UFO Funikula」と「天使の泉」を置きましたので「般若心経の音楽的解釈の試み」などとともにお聴き頂ければ幸いです。

「遊観の音楽サイト 」ーピアノ曲などに置きました。
https://sites.google.com/site/youguannoongakusaito/han-nyashinkyou-no-ongaku-teki-kaishaku-no-kokoromi/piano-kyoku-nado

2010年5月6日木曜日

韓国のイ・オリョンさん


「NHK BShiプレミアム8 <人物> 未来への提言
文化学者イ・オリョン
~韓国併合から100年日本へのメッセージ
5月6日(木) 午後8:00~9:15
“縮み”志向こそ日本文化だと説く、韓国の元文化相イ・オリョンさん。韓国併合から百年を経て劇的に変貌した日韓関係を読み解き、日本の新たな時代の指針を展望する。」

 帰宅して食事をしながら、テレビをつけた所、偶然でしたが上記の番組を見ることになりました。イ・オリョンさんは日本にも留学したことのある方で、学者上がりの韓国の文化相です。この方の日韓、および世界に対する洞察の深さと、知的なセンス、確固とした偏らない歴史観、柔和な視点などに驚きました。韓国にこのようなすぐれた政治家がいることを知りませんでした。日本語の著作があるそうで、早速読みたいと思いました。


 一体、日本にこのようなすぐれた政治家、経済人がいるだろうかと考えて愕然としたのはぼくだけではないだろう。早く言えば、日本の政治、経済のボスたちは極端に頭が悪い、なんのセンスもない。もちろん自分で考えることなどできない。例えば日本歴史を考えるのに記紀さえまともには読んでいないし、今日の数字だけを見て、一喜一憂しておろおろするばかり、計算は小学生と同じで加減乗除どまり、多いか少ないかの判断しかできない。関数なんて使い方も分からない。もちろん、勉強しようなどとも思わない。いい大学を出ているのだから、自分は利口だと思っている。イエスマンだけを可愛がり、有能な人を煙たく思う・・・うーん、この国の現在の政治、経済、文化、精神に閉塞感が漂うのも当然だ。
 米国や日本にイ・オリョンさんをトレードできれば、多い少ないだけしか判断できない腐った低脳な守銭奴共を追い払うことができるかもしれない。

イ・オリョンさんについて、上記の一本のテレビ番組だけしか見ていないのに、これほど強い感銘を受けたことは、自身驚いた。それほどに、この方は凄い人だと思う。


WikiPedia より引用


李御寧(イー・オリョン、1934年1月15日(戸籍上、実際の出生日は1933年11月13日(旧暦)) - )は、韓国の文芸評論家、初代文化相。
韓国忠清南道牙山郡温陽邑左部里生まれ。ソウル大学校国文科卒、同大学院修了、大学院碩士。文学博士。朝鮮日報などの論説委員、梨花女子大学教授、碩学教授、記号学研究所長を経て、同大学学術院名誉碩座教授・中央日報社常任顧問。1981-1982年、東京大学比較文学比較文化研究室客員研究員。1988年、ソウルオリンピックの開閉会式等文化企画を主導。1989年、盧泰愚大統領の政府に於いて初代文化相に任命された。2000年、新千年準備委員会委員長(大統領直属)。
1982年、日本語で書かれて出版された『「縮み」志向の日本人』(学生社)はベストセラーになり、国際交流基金大賞受賞。同書では、従来の日本の比較文化論が日本と西洋の比較でしかなかったことを批判し、土居健郎の「甘え」概念について、日本独特というが、単に西洋にはないだけで韓国にもそれに相当する語はあると批判した。
2009年、『蛙はなぜ古池に飛びこんだか』(学生社)により、正岡子規国際俳句賞スウェーデン賞受賞。
韓国では『李御寧全集』(22巻)のほか多数の著書がある。 

2010年4月25日日曜日

思い上がっている自分


 前回「余暇と祝祭・ヨゼフピーパー著から」でヘラクレス的労働について書きましたが、キリスト教の「ヨブ記」がヘラクレス的労働の強烈なイメージがあるように感じるのはぼくだけではないでしょう。

 ベーメは「アウローラ」の中で、果敢にも聖書にも間違った所が結構あるのだと書いています。例えばこのヨブ記のような内容だと考えるのは間違いでしょうか。ベーメの神秘体験から叙述した著書から類推すると、どうしてもそう考えてしまいます。確かに、ベーメは福音書や詩編などからたくさんの引用をしていますが、ヨブ記のような箇所は遠ざけているように思えます。

 カントなど権力体制に迎合するような哲学のほとんどは、個々の人間の人生を豊かにすることはありません。リーラーの宇宙・第一章でふれましたがマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の分析も、当時のプロテスタントがヘラクレス的労働を賛美する傾向が強くみられます。これもヨブ記的精神の一つと思われます。結果、多くの産業労働者は悲惨な労働条件を強いられることになりました。例えば英国の少年たちは一日18時間の労働でばたばたと死んでいきました。
「どんな悲惨な結果が待ち受けていようと、甘受しなさい、それも神の思し召しなのだ」という説教をする者は決まって、ぬくぬくとした生活を送っている富裕な聖職者と権力者たちです。また、独ソ戦の本を読んだことがあるのですが、ドイツがソ連に攻め入った際に、ドイツの一般兵士は飢えと寒さに苦しみましたが、高級将校たちは膝に女性を乗せて、暖かい部屋で作戦を立てていました。これではドイツはソ連に負けるだろうという一般兵士の述懐がありました。

 ヨゼフ・ピーパーが言うように「ヘラクレス的労働」を賛美する背景は、悪魔に魂を売り渡した黒い肥満動物の思い上がった態度がみられるのです。
ぼくはだから、悩みます。飢えなどの恐怖に対峙することなく・・・・トイレで温水で尻を洗ってくれるような快適な日常生活をしていて、このようなことを書くことは、自分も悪魔に魂を売り渡した黒い肥満動物の思い上がった者たちと同類なのではないかと・・・。 絵はギュスターブ・ドレのルシファーの図ですが、もちろん彼に同情しているのではありません。ぼくも愚鈍で思い上がった人道主義者なのかという思いなのです。

2010年4月14日水曜日

「余暇と祝祭」ヨゼフ・ピーパー 稲垣良典訳 講談社文庫 より


絵はカラバッジオのユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母マリアと幼子イエス、マリアの夫の聖ヨセフを描いた「エジプトへの逃避途上の休息」だ。ヨセフの楽譜を見て、天使がバイオリンを弾いている。マリアとイエスはうたた寝をしている。予言者の乗り物であるロバも耳を傾けている。

われわれも人生において、諸々のものに追われ続けていると感じることがあるが、ゆっくりと休息を取るとそれが錯覚であることに気付く。

むしろ余暇は人生にとって、主なのだとヨゼフ・ピーパーは語る。

だからこそ休息に天使が舞い降りる。下記に引用するのは、「余暇と祝祭」から・・・。


【カントは、哲学することは「ヘラクレス的労働」だ、という言い方をしていますが、彼はそのことをたんに哲学することの特徴だと考えているのではありません。むしろ、彼によると哲学は「労働」であることによってはじめて正当化されるのです。いいかえると、ある哲学が真実の哲学であるかどうかを決める基準は、それが「ヘラクレス的労働」であるかどうか、ということなのです。
カントにとって「知的直感」は「ただで」手に入るものだからです。カントが「知的直観」から実質的な認識の成果をなにも期待しなのは「直感」というものはもともと苦労しないで得られるものだからです。
 しかし、こうした考え方をした場合、認識の「真理」を保証してくれるのは、認識のためにはらった「苦労」なのだ、という結論にたどりつくのではないでしょうか。
じつは右にのべた見解は、あの厳格主義の倫理学の立場と似かよっています。つまり人間が自然の働きにしたがってーということは、らくらくと、苦労もしないでー行為するのは真実の道徳をゆがめるものだ、という立場です。・・・・つまり(カントにとって)善というものはそれをなすことが困難であればあるほど、より崇高なものだというのです。シラーのつぎの二行詩は、この立場の弱点を見事についています。
『わたしは進んで友人を助ける、が残念ながらそうすると気持ちがよい、そこでわたしは度々なやむ、わたしには徳がないのではないか』
「苦労することは善だ」という見解に対立して、トマス・アクイナスは神学大全でおいてつぎのテーゼを立てています。
「徳の本質はそれが到達困難であることのうちにではなく、むしろそれが善であることのうちに見いだされる」したがって「より困難なことをすればそれだけ大きい功徳あるというわけではない。むしろ、より困難なことは、それが同時に、より高い意味で善であるときにはじめて、より大きな功徳があるのだ」】


 先に「アンチクリスト」で、ニーチェがカントを「カントの理論は酔っぱらいのヨタ話」とこきおろしているのをご紹介したが、穏便な表現ではあるが、ピーパーも同様にこきおろしている。
仏陀が荒修行に限界を感じたのも、そういうことではないだろうか。歯ぎしりをして、前だけを見て他者など気にもかけずにしゃにむに突き進む、もうそんなバカな文明はやめよう。「形而上学的、神学的立場からいえば「怠情」とは人間が自分の本来の存在と究極的に一致しないことを意味する」とピーパーや言う。
現代文明は、見栄を張って外面ばかりを気にして、自分をしっかりと見ない怠け者の文化であると言える、ということであろう。

2010年4月11日日曜日

「UFO論は天使論」第二回


(ここで論ずるUFOの意味はUnidentified Flying Objectで未確認飛行物体と定義する)
UFOは天使の乗り物。図はミケランジェロの「アダムの創造」だが、この絵をよく見ると、ミケランジェロは神の後ろに天使を描いている。神は人間を天使に似せて創造した。神に似せて、ではなく天使に似せてと言ったほうがいいように思えるが、実はアダムはもともと天使であったから、やはり神に似せてとなるが・・・。
また、この絵では神と天使は布のような覆いの中にいる。ミケランジェロのこの覆いの中に神と天使がいるという構図は、何らかの理由があるだろう。当然意図して描いたものと考えられる。
そう、この覆いはUFOだ。「昼は雲の柱として、夜は火の柱として」・・・旧約聖書にそう記述されている。さて、では巷間騒がれているUFOやグレイ、またおぞましい宇宙人の話とは・・・・。
キャトルミューティレイションなどは、何も高度に進んだ科学力を持った宇宙人でなくても、人間にも簡単にできる。高度な彼らが牛の臓器や生殖器や血液を採取するだろうか?また、エリア51での宇宙人解剖の話などが本当だとしたら、それが漏れるわけがない。軍隊で箝口令がしかれたら、まず部外者は知ることができない。そんなに重大なことが漏れるのなら、先端的兵器開発だって漏れてもいいはずである。民間の軍需産業と共同開発しているにもかかわらず、漏れない。

宇宙から地球に飛来してくる高度な存在は、もちろん人類に比べて圧倒的な科学技術を持っていることは間違いない。人類との差は数万年以上あるかもしれない。なにしろ光年単位の距離を行ったり来たり・・・もし他の銀河から来ているとすると、他の銀河の光が地球まで届くまで120億年くらいかかっているのだから、しかも銀河は光の90パーセントの速度で移動している・・・それで光の速さで120億年?地球の年齢は45億年くらい・・・想像もつかない科学技術か、人類とは違った形での科学技術を持っているに違いない。その彼らがわれわれの言う所の資源や富を狙う?人間を誘拐してチップを埋め込む?そういうことをするのだろうか。
彼らはリチウムやニッケルやタングステンを狙って地球に来ている?光年単位を一っ飛びできる彼らが牛の内蔵や性器を収集する?彼らの乗り物が故障して不時着?そして人間に捕まって解剖されてしまう?

最近アメリカ合衆国の元宇宙飛行士が「実は、私もUFOを見ました。はい、それはこんな形で、ええと・・・」政府やCIAやNASAに無断でマスコミに得々と話すということも面白い。

では、その意図とは?
暴力支配勢力が構築した暴力システムによって構築されている現代文明において、現在の状況を維持したいがために、他の天体から飛来してくるUFOに対して、民衆に恐怖を持たせることにある。
もし万が一に人類の中の誰かが、とてつもなく高度な科学を有した存在と結託したら、簡単に人類の社会構造など全ての構造をひっくり返してしまうことができるだろうから、そんなことがないように、UFOに対して恐怖心をしきりに煽っているのだ。
もちろん、高度な存在はそんなことをするわけがない。するわけがないのに、人類の暴力的権力主義者らは、それをひどく心配している。暴力主義者は頭が弱いのである。
人類でも知性のある者は権力や暴力を好まない。権力を握りたがるのは決まって頭の弱い知性、品性が足らない人々である。

 その高度な存在を茶化したり、恐ろしげなイメージを作ったりと、一生懸命心配している。なぜ、それほどに心配するかというと、自分は暴力を振るってもいいのだが、他者から暴力を振るわれるのはいやだということだ。とんでもなく勝手な考え方だが、品性が低い、知性がないというのはそういうことなのである。悲しいかな、そういうことがまかり通っている文明が現代のわれわれの文明なのだ。

他者に暴力を振るうことが、自分自身に同等の暴力を振るうことと同じなのであることを知らないからだろう・・・とここで言っても、人間は物理的一回かぎりの人生しかないと考えている人々には理解できないだろうが・・・・。
さて、ヤーコブ・ベーメは言っている。

『私はここで何の認識もなしに書いているのではない。けれどももしもあなたが一人の快楽主義者として、また悪魔の肥った豚のごとく、悪魔のそそのかしによってこれらのことどもを嘲笑し、そして「この愚か者は、天に昇ってそれらを見たり聞いたりしてきたわけでもない。それらはみな作り話なんだ」と言うのであれば、私としては、私の認識の力によって厳格な神の裁きの場にあなたを引き出し、呼び出しているのだと言いたい。』

「アウローラ」

 ヤーコブ・ベーメの「アウローラ・開け始める東天の紅・園田担訳・創文社」という本がある。この本は一般に15世紀のファルツ国王時代の思潮の流れとしてドイツ神秘主義思想、あるいはグノーシス的キリスト教として捉えられているが、もちろんその一面は大いにあるが、これはベーメが高度な存在と接触したことによって書かれた書物と考えるべきだ。
ベーメが天使と呼んでいる存在がすなわちUFOによって飛来している宇宙人なのである。しかし、宇宙人という用語はどうもSF的かあるいは何か茶化しているような語感があるので、リーラーとしてはこの「宇宙人」という用語を使いたくない。天使、あるいは高度な存在と呼びたい。

二六章のうち三分の一近くが天使について語られている。天使を宇宙から飛来してくる高度な存在と読み替えてみると、納得がいく。長くなるが、「第六章・いかに天使と人間は、神の似姿および像であるか・二 口について」から引用する。

十 口が意味するのは、あなたが天使か人間かのいずれであるにせよ、あなたの父なる者の、その全能ならざる一人の子であるということである。なぜなら、もし生きようとするなら、あなたはあなたの父の力を、まさに口を通してわがものとしなければならないからである。天使もまた人間と同じようにしなければならない。もっとも天使は、人間のような仕方で大気の元素を必要とはしないが、それでもやはり霊(日本語のムスヒに相当する語・遊観注)をわがもとするのはーそしてこの世界の大気も、もともとこの霊から 成り立つのであるがー口を通してでなければならない。

十一 実際、天においてはそのような大気は存在せず、もろもろの性質はいわば快い爽風に似てまったく柔和であり、歓喜に充ちている。そして精霊はこれらすべての性質のもとで、サルニテルとメルクリウスのうちにある。このような精霊(ムスヒ)を天使もまた必要とするのであり、それなくしては天使も運動する被造物ではありえない。実際、彼もまた天上の果実を口を通じて食べねばならないのである。

十四 しかしながら、彼が食べる天上の果実は地上的なものではない。それらの果実は、その形と姿において地上のそれらのようでありながら、やはりただ神的な力であり、それゆえこの世の何ものとも較べられないほどの快い味と香りをもつ。』


ベーメは世界を表現するのに、「渋い」とか「苦い」などの独特の用語で説明するが、ほかに表現方法がないのでこうした感覚を使うのと同様、天使についても地上的な表現ではないことを強調している。